​フリーメイソンとフランス革命を巡る会話:フランクリン・ゲーテ・ナポレオン

2021.03.22

開発秘話

​フリーメイソンとフランス革命を巡る会話:フランクリン・ゲーテ・ナポレオン

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/ブラウンシュヴァイク侯は、フント男爵のドイツ人大移民団を米国独立弾圧の傭兵軍に変え、ロスチャイルド家を通じてその利益を仏大オリエント社のエジプト十字軍に投資。しかし、その大統領オルレアン平等公は武装市民革命を企て、マインツ独立の失敗、ロベスピエールの独裁、ナポレオンのクーデタと、メイソンリーは迷走していく。/

「二人とも、断頭台を待つばかりの身の上ですものね、ちょっとわかるわ」

「いや、だけど、九四年の七月末にテルミドール(熱月)のクーデタだろ」

「そう、ダントン派の残党の三九歳のバラスが国民公会軍を率いてロベスピエールの方を断頭台に上げた」


オッシュ将軍とナポレオン

「じゃ、ジョセフィーヌとオッシュ将軍は?」

「オッシュ将軍は、すぐヴァンデ反乱の対応に向かわなければならなかった。ボルドー市の北、ナント市やヴァンデ地方で、カトリック王党派残党が、徴兵令に反対する農民たちを巻き込んでゲリラ戦を展開したために、その鎮圧にはひどく手間がかかった」

「ジョセフィーヌの方は?」

「総統バラス子爵の愛人になった。汚職と腐敗の巣窟のような政治を繰り広げた」

「潔癖主義のロベスピエールより、さらにタチが悪そうじゃないか」

「でも、なんだかんだ言っても、ナポレオンがひっくり返すまで五年間も持ったんだぜ」

「すごいな」

「まず対外戦争を次々と終結。国内に復活してきた復古派を弾圧。九五年十月のヴァンデミエール(葡萄月)の反乱じゃ、バラス子爵が国内軍総将軍になって、二六歳のナポレオンを副官に抜擢。ナポレオンは、革命広場、いまのコンコルド広場で散弾大砲を復古派の暴徒に水平撃ちして、一日で鎮圧してしまった」

「それで、ジョセフィーヌは、ナポレオンに乗り換えた?」

「そんなところだな。九六年三月九日に結婚して、三月二七日にはナポレオンはイタリア派遣軍総将軍になっている。もっとも、このころ、いちばんの英雄は、ナポレオンより一歳年上で、九六年七月にヴァンデ反乱を終結させたオッシュ将軍だったんだ。アイルランド遠征は失敗したものの、九七年二月、ライン方面に乗り込み、プロシア連合軍を奥地まで追い込んだ。一方、ナポレオン将軍も、四月にはウィーン市まで迫る。八月、オッシュ将軍は、ライン左岸(西側)を完全に手中に収め、ケルン市・コブレンツ市・マインツ市を中心に、オランダ国境からストラスブール市まで、新たにシスレニア共和国を独立させようとした」

「シスレニアって?」

「ラテン語で、ラインのこちら側、という意味だな」

「ところが、九月、オッシュ将軍が、フランクフルト市の北の前線で病死。十月、ナポレオン将軍は独断でオーストリアと講和して、とにかくシスレニアを承認させ、十二月に凱旋」

「このころ、かつてのイルミナティの人たちは何をしていたんですか?」

「七一歳の老カントは、あいかわらず東北の辺境、プロシアのケーニッヒスブルク市にあって、九五年四月のプロシアとフランスの間のバーゼルの和約を一時の気休めに過ぎないと批判し、『恒久平和のために』を書いて、どの国も共和政だったら、国民の意見がバラバラになってしまって開戦の合意に至らないはずだ、なんて楽観的に考えている。一方、その弟子で三四歳のイェーナ大学教授フィヒテは、逆に、九六年には、国家は、国民の自由と権利に担保された絶対意思の表れだ、なんて、言い出した」

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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