/歴史を振り返るなら、徳川家康にしても、ナポレオンにしても、エリツィンにしても、保守と改革、五分五分の対決に、「正義」もへったくれもあるまい。四の五の言わせず、いきなりの砲撃爆撃で相手を黙らせたやつが勝つ。そこで腰が引ければ、徹底的に叩き潰される。それで歴史が決まる。その覚悟も無しに、どちらも決戦など煽ってはなるまい。/
30年前の1991年まで、世界の「東」半分を主導するソ連、ソビエト社会主義共和国連邦という超大国があった。にもかかわらず、それは、ある男の「活躍」で、わずか数年でみごとに瓦解してしまった。それが、エリツィン。
腐敗を言えば、どこの国にでもある。しかし、1917年のロシア革命以来の硬直した制度の綻びは、70年たった86年のチェルノブイリ事故あたりから救いがたくなる。その前年、85年から共産党書記長(実質的主導者)となっていたゴルバチョフ(1931~、55歳)は「ペレストロイカ(建て直し)」として経済改革を開始するが、これは政治改革にも発展。90年、人民代議員大会の間接選挙による大統領制を導入し、3月、みずからがその初代(59歳)に就任。
同90年5月、ゴルバチョフの改悪の遅れを批判する同年の急進派エリツィン(1931~2007、59歳)が、ソ連を構成している中心のロシア共和国最高会議議長に。翌91年6月には、57.3%の直接選挙得票で同共和国大統領となる。つまり、この時点で、間接選挙によるソ連の大統領ゴルバチョフと、直接選挙によるロシアの大統領エリツィンとが二重に存在していることになった。
ソ連大統領ゴルバチョフ(60歳)は、ロシアなど、構成15共和国への分権(緩やかなソ連解体)を考えていたが、これに対し、同年8月19日、保守派のソ連副大統領ヤナーエフ(1937~2010、54歳)は、ゴルバチョフを誘拐監禁、「国家非常事態委員会」を立て、戦車部隊を出してモスクワを占拠し、自分が大統領の職務を継ぐ、と一方的に放送して、反動クーデタを起こす。
これに対し、ロシア大統領エリツィン(60歳)は、みずから戦車に登って部隊を静止、国民にゼネストを呼びかけ、銃や火炎瓶で武装した市民たちともにロシア政府ビルに籠城。20日の昼には、ビルの前に10万人の支援者が集まった。同深夜、戦車部隊が進撃。朝まで十数名の市民の死者を出す小競り合いが続く。
21日、エリツィンは軍の静観を取り付け、ヤナーエフらに、夜までに権力放棄するよう最終通告を出す。14時、エリツィンが勝利宣言。ヤナーエフ派は国外逃亡ないし自殺。夕方、クリミア半島でゴルバチョフを救出。22日昼、20万人の市民とともにエリツィンが勝利を祝う。これが、同日夜には共産党禁止のデモに発展。翌23日、ロシア共和国内での共産党禁止のロシア大統領令。
いまだ共産党書記長を兼ねていたものの、すでに求心力を失ったソ連大統領ゴルバチョフは、エリツィンに追随し、24日、ソ連共産党の資産を凍結。29日、ソ連最高会議でソ連共産党の活動停止が決定された。そして、12月25日、大統領ゴルバチョフの辞任とともにソ連は解体。ロシア連邦などがそれぞれ独立する。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。