/キリスト教はローマ帝国の皇帝崇拝と多神教を拒否して迫害された、と答えることになっている。しかし、迫害ばかりされていたら、大帝国を乗っ取るほど教勢が伸びるわけがあるまい。/
そして、親衛隊長から成り上がったのが、フィリップ帝(位244~49)。彼は、本人が入信していたのではないか、というくらい、キリスト教を優遇します。しかし、ドナウ地方にゲルマン人が来襲すると、デキウスに大軍を預けて派遣。これが裏切って、自分が皇帝に。
J あー、こんな時代に大軍を任せるなんて、お人好しすぎますよ。
デキウス帝(位249~51)は、キリスト教、とくにローマ教会を、帝国に並ばんとする内なる脅威として迫害。ローマ司教ファビアヌス(位236~50)も殉教させられてしまいます。それで、ノウァティアヌス(位251~58)がローマ司教を僭称し、迫害における離教者の復帰を許さない強硬派として、皇帝との対決姿勢を強めます。しかし、テルトゥリアヌスの教えを継ぐカルタゴ司教キプリアヌスは、「教会の外に救い無し、サルス・エクストラ・エクレシアム・ノン・エスト」として教会の普遍性を主張しつつ、ノウァティアヌスの独走を牽制して、コルネリウス(位251~53)を正規のローマ司教に押し上げます。
デキウス帝がゲルマン人と戦って51年に戦死。253年、ドナウ軍の支持を得て皇帝になったウァレリアヌス帝(位253~60)は、軍人にしては温厚でした。その下で、ローマ司教ステファヌス一世(位254~57)が、ペトロ座、カテドラ・ペトリとして、他の諸教会に対する首長権を主張。これに対し、キプリアヌスは、すべての教会を同等として批判。しかし、ウァレリアヌス帝は、晩年、エジプト教信徒の高官にそそのかされ、258年にキリスト教を迫害、ローマ司教シクストゥス二世(位257~58)はもちろん、対立ローマ司教ノウァティアヌス、カルタゴ司教キプリアヌスも、みな殉教させられ、空位と混乱が続きます。
J ほんと、このころのキリスト教、内輪もめで大きな騒ぎを起こして、まとめて迫害されてばかり。
ところが、260年、ウァレリアヌス帝がペルシアとの戦いに敗れ、捕まって行方不明に。これに乗じて、アルプス以北・ブリテン・イベリア半島で、ガリア帝国が、小アジアからエジプトまで、パルミラ王国がかってに独立し、帝国は事実上の三分割になってしまいます。それで、後を継いだウァレリアヌス帝の子、ガッリエヌス帝(位253~68)は、もはやキリスト教に関わっている余裕などありませんでした。
ペルシア遠征にも従軍したプロティノス(c205~270)は、ローマに戻ると、プラトン後期の思想に、フィロやエピクテートスのロゴス論、インドのウパニシャッド哲学などを合わせたような流出説、エマナティオニスムを唱え始めます。それによれば、神とも善や美とも呼ばれる純粋な一、ト・ヘン、は、ただ存在するだけの不変のものですが、その自己認識の像が、理性、ヌースであり、霊魂は自由意志で好んで地上のものに宿り、理性をまねた雑多なものを体現しようとする、とされます。ここにおいて、人間も外に理性の世界を実現しようとするものの、肉体が個々ばらばらで連係が取れず、罪を犯してしまいます。そこで、人間は霊魂の内に一者への愛というエクスタシス、忘我によって、一者に回帰すべきであり、自分もまた、忘我を何度か体験している、と言います。
歴史
2020.02.29
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2020.11.18
2021.01.12
2021.03.22
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。