/キリスト教はローマ帝国の皇帝崇拝と多神教を拒否して迫害された、と答えることになっている。しかし、迫害ばかりされていたら、大帝国を乗っ取るほど教勢が伸びるわけがあるまい。/
J なんか、帝国が衰退していくのに、教会がその中で別の国家を作り始めてしまったみたいですね。
皇帝たちも、ニカイア派の合同教会は危険だと思ったのでしょう。353年、東帝から帝国再統一を果たしたコンスタンティヌス二世(位337~61)は、むしろアリウス派で、ローマ司教リベリウス(位352~66)にアリウス派への転向を強い、アレキサンドリア司教となったニカイア派のアタナシオスを追放します。また、アリウス派を学んだゲルマン人司教ウルフィラ(c311~83)によって、ゲルマン人にもアリウス派を広く布教していきます。
まして、コンスタンティヌス二世帝を継いだ又従弟のユリアヌス帝(位361~63)は、ローマ伝統の神々の復興を図り、また、ユダヤ人のイェルサレム神殿を国庫負担で再建することを約します。そのせいで、彼は、べつに弾圧や迫害をしたわけでもないのに、キリスト教徒から「背教者」などと罵られ、363年に暗殺されてしました。
J いや、背教もなにも、ミラノ勅令で何を信仰しようと自由なんだから、べつに皇帝が伝統の神々を崇拝したって、ユダヤ教を支援したって、よけいなお世話でしょ。
この後、軍人ウァレンティニアヌス一世(位364~75)のウァレンティアヌス朝となりますが、弟のウァレンス東帝(位364~78)もまたアリウス派でした。しかし、このころ、ローマ市でも、ダマスス一世(位366~84)がならず者を使って反対者たちを次々と殺し、司教にのし上がってしまいます。これに対し、ウァレンティニアヌス一世西帝は、これを追認するしかありませんでした。それをいいことに、ダマスス一世は、またローマ司教の全教会に対する首長権を主張し、世俗王のような豪奢な生活を見せびらかすようになります。また、彼は、キリスト教をローマ化すべく、ヒエロニムスに命じて新旧両聖書をラテン語に翻訳させます。
J エジプトに次いで、ローマ市もニカイア派の合同教会のごろつき連中に乗っ取られてしまったということですか。
同じころ、その西帝国の首都ミラノ市でも、ニカイア派とアリウス派が激しく争って揉めており、キリスト教徒でさえなかった名門の首席執政官アンブロジウス(位374~97)がニカイア派に担がれ、司教に立てられます。おりしも内陸のフン族に追われたゲルマン人が、375年、バルカン半島に侵入。これと戦ってウァレンス東帝は、378年に戦死。代わって、ウァレンティニアヌス一世の娘婿でニカイア派のテオドシウス一世(位379~95)が東帝になります。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。