/キリスト教はローマ帝国の皇帝崇拝と多神教を拒否して迫害された、と答えることになっている。しかし、迫害ばかりされていたら、大帝国を乗っ取るほど教勢が伸びるわけがあるまい。/
その最初のセウィルス帝(位193~211)からして、キリスト教の聖油が自分の病に効いたと信じたことから、キリスト教徒を身近に置くようになり、幼いカラカラらの保育や教育もキリスト教徒に委ねました。これに倣って、各属州でも、総督は現地教会から例年、相応の贈与を受け取り、急速に教勢を伸ばしていきます。
J うまく政治に取り入りましたね。
現チュニジア、カルタゴ市のモンタノス運動家テルトゥリアヌス(c160~c220)は、マルクスアウレリウス帝が寛容勅令を出していた、などと言って、ローマ帝国に対してキリスト教の護教論を展開。しかし、西方合同派の寄せ集めの使徒信条は、同じキリスト教の他の教会、とくに東方の諸教会のグノーシス派やモナルキア派からさっそく批判され、これらに対しても、テルトゥリアヌスは護教論を工夫しなければなりませんでした。
まず、善なる神による魂と悪なる神による肉体の二元論を採るキリスト教グノーシス派に対しては、魂は肉体の罪の責任を負い、それゆえ、蘇りは神が創造した肉体とともにである、と言います。また、イエスは父なる神の一時的な現れの様態とするキリスト教モナルキア派に対しては、それでは父なる神が十字架の受難にあったことになってしまう、と論破しました。そして、彼は、使徒信条に創造神とイエス、聖霊の三つが挙げられてしまっていることのつじつま合わせとして、神は唯一の実体でありながら、三つのペルソナ、位格を持つ、という三位一体(さんみいったい、トリニタス)説を唱え、子なる神が死んで蘇った、ということについては、「不条理ゆえに我信ず、クレド・クィア・アブスルドゥム」として、哲学を越える信仰の意義を主張しました。
アレクサンドリア学派のクレメンス(c150~c215)とその弟子のオリゲネス(c185~c245)も、フィロやユスティノスのロゴス論を発展させ、聖書を比喩的に理解する独自の神学を構築し、やはり神の父子一体を唱えました。彼らによれば、父なる神が父である以上、子なる神もまた最初から父なる神に含まれている、とされます。
J ロゴスとして、言った、なら、何を言ったか、も、いっしょになっているということかな。
西方合同派の成立とともに、あまりに急拡大するキリスト教にセウィルス帝は危機感を抱き、キリスト教への新規改宗、その伝道などを禁じますが、それは既存の教会を破壊するような迫害ではありませんでした。そして、その子、カラカラ帝(位211~17)の時代になると、いよいよ教会は勢力を増し、土地を買って聖堂を建て、宮廷に堂々と出入りするほどになっていきます。彼は、216年、皇帝に反抗的なアレクサンドリア市の青年たち二万人以上の大虐殺を行っていますが、アレクサンドリア学派のオリゲネスらは無事でした。
歴史
2020.02.29
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2020.11.18
2021.01.12
2021.03.22
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。