/キリスト教はローマ帝国の皇帝崇拝と多神教を拒否して迫害された、と答えることになっている。しかし、迫害ばかりされていたら、大帝国を乗っ取るほど教勢が伸びるわけがあるまい。/
J それって、ユダヤ人にケンカを売っているようなものでしょ。
ええ。それで諸教会の司教たちがすぐに集まって、144年、マルキオン教会を異端として破門しますが、各教会が独立である以上、なんの意味もありません。このため、異端と対抗すべく、信仰の基礎とすべき聖典や教義を整理する必要性を強く認識するようになります。
また、教父ユスティノス(c100~65)は、グノーシス派のマルキオン教会と対抗すべく、同じローマ市でキリスト教私塾を開きます。ここで、彼は、フィロやエピクテートスのように、神をロゴス、論証として捉え、これによって、太陽とその光のように、イエスは神のロゴスである、とすることで、父なる創造神と子なるイエスの同一性を説明します。
エフェソス市の使徒ヨハネの弟子、ポリュカルポスは、その北のイズミル市司教でしたが、155年、皇帝崇拝を拒否して殉教。一方、トルコ内陸のモンタノスは、156年、聖霊を感じ、再臨に備え、独身・断食・苦行の信仰生活を重視する運動を始め、この運動は北アフリカやガリアなどに急速に普及していきます。このモンタノス運動は、信仰はあくまで個人と神の問題として、このころ一般化しつつあった都市教会の専業司教に否定的でした。
J 修道士の元ですか。でも、イエスの時代から、町を離れて暮らすエッセネ派みたいなのはいましたよね。
この後、学者肌でストア派を信奉し、寛容を信条とするマルクスアウレリウス帝(位161~80)が161年に即位しますが、さっそくにパルティア、つまり、昔のペルシア、今のイランと戦争が始まってしまいます。将軍カシウスが現バグダッド南東20キロほどの首都へ攻め込んで勝利し、166年に凱旋したものの、翌167年には、こんどはゲルマン人がアルプスを越えて侵入。マルクスアウレリウス帝みずから、これを追って現オーストリアのドナウ川で一進一退の攻防。この間、175年には、将軍カシウスが反乱。これを誅殺して、またドナウへ。そして、180年に客死。
J ようするに、最初の五年くらいしか、ローマ市にいなかった、ということですね。
いや、いなくてよかったんですよ。最初の五年、マルクスアウレリウス帝は、パルティア戦争の都合からユダヤ人の側に付いていました。このころ、キリスト教徒はミサの聖体拝受で「子」の「肉」を喰い「血」を飲んでいる、赤ん坊を生贄にしている、との中傷のウワサが流れます。それで、彼は、キリスト教を弾圧。このとき、ローマで私塾を開いていた教父ユスティノスも殉教させられています。
歴史
2020.02.29
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2021.01.12
2021.03.22
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。