/キリスト教はローマ帝国の皇帝崇拝と多神教を拒否して迫害された、と答えることになっている。しかし、迫害ばかりされていたら、大帝国を乗っ取るほど教勢が伸びるわけがあるまい。/
とくにまずかったのが、キリスト教徒が四分された皇帝権を軽んじ、ただでさえ辺境防衛で手を焼いているのに、軍隊の中で信者を増やしてつながり、露骨に反帝反戦を訴える狂信的な者まで出てきたことです。皇帝のそばに仕える親衛隊長のセバスティアヌスまで信者で、仲間の多くを勧誘していました。この身中の敵に対して、ディオクレティアヌス帝は、303年、ついに迫害令を発し、巨大になりすぎた各地の聖堂を破壊。ローマ司教マルケリヌス(位296~304)を屈服させ、ローマの神々を礼拝させています。また、親衛隊長のセバスティアヌスは、柱に縛り付け、大量の矢を射かけて殺しました。
J そのセバスティアヌスって、すっごい美男子のゲイだったんでしょ。なんかゲイの人が言ってましたよ。でも、いくらヘレニズムで同性愛だらけでも、やっぱり軍隊の中だとまずかったんでしょうね。
ディオクレティアヌスの迫害令に従って、軍人で、以前からキリスト教に強い危機感を持っていた西方皇帝マクシミアヌスや東方副帝ガリレウスは、聖堂破壊や司教弾圧だけでなく、一般の信徒さえ火刑に処していきます。一方、アルプス以北を担当する西方副帝コンスタンティウスは、宮廷にキリスト教徒が多かったこともあり、おざなりに迫害令に従っただけでした。
J つまり、ローマ帝国中央のイタリアとバルカン半島で激しい迫害が行われたものの、東方や西方では、それほどでもなかった、ということですね。
305年には、ディオクレティアヌス帝が引退。ガレリウス帝が中心となるも、新規に皇帝になった者やその息子たちが入り乱れて内戦ですよ。もうキリスト教徒の迫害なんか大々的にやっている余裕はありません。そうでなくとも、これまでにもモンタノス運動として町の教会を離れるキリスト教修道者は少なくありませんでしたが、数十年以上も北の砂漠の廃墟で極端な耐乏苦行に身を投じていた隠者アントニオスのところには、多くの弟子が集まり、修道会ができて、彼を訪れる巡礼者が増え続けます。
J 迫害や内戦から遠ざかって信仰生活に没頭したというわけですね。
概して軍人皇帝たちは、反帝反戦のキリスト教徒を嫌って、アンティオキア市のルキアノスなども殉教させていますが、ディオクレティアヌス帝の迫害令もおざなりしか従わなかったコンスタンティウス西副帝の息子、コンスタンティヌス一世西帝(306~37)は、むしろキリスト教徒を味方にして、312年、十字架旗を掲げ、ローマ市へ進軍。翌313年、ミラノ勅令で、キリスト教を含めた信教の自由を認めます。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。