キリスト教はローマ帝国に迫害されたか(2)

2020.09.30

開発秘話

キリスト教はローマ帝国に迫害されたか(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/キリスト教はローマ帝国の皇帝崇拝と多神教を拒否して迫害された、と答えることになっている。しかし、迫害ばかりされていたら、大帝国を乗っ取るほど教勢が伸びるわけがあるまい。/

J それ、ユダヤ教やミトラ教、マニ教でもOKということですね。

それどころか、キリスト教諸派もあり、ということになります。実際、アンティオキア市のルキアノスの弟子、司祭アリウス(250~336)は、アレキサンドリア市に移ってイエス養子説を広めました。ただ、エビオン派、サモサタのパウロスやルキアノスと違って、アリウスは、アレクサンドリア学派のクレメンス(c150~c215)とその弟子のオリゲネスのイエス・ロゴス説も取り込んでおり、キリストはロゴスとして先在し、受肉してイエスとなった、とします。

J いくら帝国が認めても、そんなの、西方合同派が許さないでしょ。

隠者アントニオスらもアリウス派を嫌い、アレキサンドリア司教アレクサンドロス一世は、321年、アリウスを破門、現クロアチアへ追放。324年、東帝を倒して帝国再統一を成し遂げたコンスタンティヌス一世帝もまた、翌325年、東方キリスト教聖職者を集めてニカイア公会議を開きます。参加者はおよそ二五〇名。西方聖職者はわずか五名で、ローマ司教さえ来ていません。つまり、この公会議は、実質的には、西帝だったコンスタンティヌス一世が東方教会をも傘下に収めたことを示すものでした。

内容的には、アレキサンドリア助祭アタナシオス(298~373)が父子同質、ホモウジオス説を説き、あらためてアリウス派を異端とします。そして、この公会議で寄せ集めの使徒信条が整理され、父と子と聖霊の三位一体が「ニカイア信条」として東方合同派の共通了解として確立されました。

J でも、それ、結局、東方合同派が西方合同派に同意したというだけで、帝国はミラノ勅令で、諸派の信仰の自由も認めてるんでしょ。

だから、東方合同派が自分たちで自分たち以外を異端とする決議をしたところで、個々の教会がそれぞれ独立である以上、アリウス派にすれば知ったことではないですよ。コンスタンティヌス一世帝は、330年、首都を東の新たなコンスタンティノープル市に遷しますが、337年、死去。帝国は息子兄弟でまた三分割されてしまいました。ここにおいて、ローマ司教ユリウス一世(位337~52)がまた全教会に対する首長権を主張し、東西の合同派をニカイア派として一つにまとめようとします。

また、隠者アントニオスの近くで修道者となった元軍人のパコミウスは、その後、エジプトのテーベ市、現ルクソールの周辺に共同生活を営む修道院をいくつも作りましたが、このころ、その人員は総計三千名以上に膨れ上がっていきます。ただし、彼らは修道者ではなく、むしろたんに食い詰めて流れ着いた人々で、ふだんは農業に従事していますが、いざとなれば軍隊や市民、対立教会との戦闘も辞さない私兵でもありました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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