/キリスト教はローマ帝国の皇帝崇拝と多神教を拒否して迫害された、と答えることになっている。しかし、迫害ばかりされていたら、大帝国を乗っ取るほど教勢が伸びるわけがあるまい。/
実際、コンモドゥス帝も、何度も暗殺されかかり、それで、政治は侍従たちに丸投げして、自分は公式の場にいっさい顔を出さなくなりました。そんなこんなで、父帝のキリスト教排除も停止。それどころか、帝の愛妾が信者で、むしろかってにキリスト教を保護し始めます。
それで、このころからキリスト教も急成長。あちこちの教会の礼拝で使われている主だった文章を寄せ集め、共通の信仰の基礎としていきます。とはいえ、これらはギリシア語で、どの文章を聖典とするか、根本の信仰規準がないために、なかなか意見がまとまりません。かろうじて西方でおおよその賛同がえられた信仰規準が、もとより寄せ集めのローマ教会の洗礼宣誓などで用いられたラテン語の「使徒信条」。すなわち、父なる創造神と子なるイエスを主として信じ、その子なる主は聖霊によって処女マリアから生まれ、十字架に付けられ、蘇って天に昇り、父なる主の右に座し、いずれ再臨して人々を裁く。また、聖霊を信じ、教会、罪の許し、体の蘇り、永遠の命を信じる。
J なんか、全部のエピソードを盛り込んだ感じで、ごちゃごちゃですね。
でも、これでようやくキリスト教が形になって西方合同派ができてきたのです。そして、これを規準に、ヘレニズム的なグノーシス派やユダヤ教的なエビオン派を異端とし、ユダヤ教とも対立。でも、これに反しないとして、聖誕祭や復活祭など、人気のミトラ教の儀式は、ちゃっかりキリスト教に取り込んでいます。
くわえて、北アフリカ出のローマ司教ウィクトル一世(位189~99)は、ギリシア語ではなくラテン語でミサを行い、ユダヤ暦ではなくローマ暦の日曜で復活祭を行うように主張し、従わない教会は「破門」する、と脅しました。もっとも、師から直接に使徒たちのことを聞いたという最後の使徒派、ガリア、リヨン市の司教エイレーナイオス(c130~202)は、古い律法はイエスにより更新された、また、ローマ教会には特別な地位がある、と認める一方、教会のことは諸教会が協調して決めるべきだ、として急進的なウィクトル一世を諫めます。
09.02.02. セウェルス朝とキリスト教西方合同派(193~234)
192年末のコンモドゥス帝暗殺の後、あれこれの野心家が出て、セウェルス帝とその子のカラカラ帝、カラカラの子とされたシリア人のエラガバルス帝、その従弟のアレクサンデル帝のセウェルス朝(193~235)が成立します。
歴史
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2021.01.12
2021.03.22
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。