/教科書では、株式会社は、物的な営利の社団法人、と教えられる。しかし、その実際は、むしろ意思無能力な財団であって、その後見人としての支配権と正当性が、歴史的、社会的に揺らぎ続けている。/
「植物人間」は、直接には「行為無能力者」であっても、このような「後見人」の代表によって、事実上の法律的な「行為能力」を回復する。むしろ問題なのは、この「植物人間」が〈行為能力〉、とくに、経済行為に関する〈行為能力〉を持つかどうか、である。というのも、「後見人」の事務は、療養看護も含め、実際は財産管理を中心とするものであり、管理すべき財産がないならば、財産を管理する事務もないからである。
逆に、いかなる経緯であれ、すでに財産が存在し、その直接の所有者に意思能力がない場合、我々は、社会的にその所有者に「後見人」を必要とする。というのも、先述のように、所有は、所有者本人よりも、その所有者以外が、所有者が所有するとされている財産に関わる行為をする際に特別な配慮や手続を必要とする、つまり、その所有者以外がその財産に関して特別な配慮や手続の義務を負うからであり、これらの配慮や手続において、その所有者の承認などの表示行為が必要とされるからである。たとえば、山の木の伐採に関し、これを所有する山の主が実際の意思能力を持たない以上、山の主を代表する後見人の祭司の承認を必要とする。そして、これは、山の主が祭司に憑依してのことであるから、祭司の承認ではなく、山の主そのものの承認とみなすことができる。
5 意思無能力者としての株式会社
さて、「財団法人」を鑑みるに、それはまさに、このような財産を所有する「意思無能力者」に対する後見制度と平行する13。そして、この平行関係は、なぜかむしろ「社団法人」の「株式会社」においてさらに著しいのである。
「株式会社」は、たしかに、その設立において「発起人」を必要とする(『商法』165)。この「発起人」は、同一の定款に賛同し署名することにおいて合同行為をなす集団と認めることができる。ここにおいて重要なのは、「発起人」が結社し、合議によって定款を作成するのではない、ということである。すなわち、その定款に賛同しない者は、そもそも「発起人」とはならない。それゆえ、この「発起人」の集団は、合同行為をなすことにおいて、単なる集合ではないが、個々の成員と別の意思を持つ社団でもない。むしろまさに合同行為そのものであって、この行為から遡及的にこの行為そのものの主体として、いわば〈プロト株式会社〉が措定される。そして、個々の「発起人」は、定款に関して、まさにこの〈プロト株式会社〉と同一の意思を持つという意味で、合同行為の範囲内において〈プロト株式会社〉を代表する。そして、彼らは、〈プロト株式会社〉を代表して、合同行為として株式を発行する。
哲学
2017.06.28
2017.07.04
2017.07.20
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2017.11.19
2017.11.22
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。