/教科書では、株式会社は、物的な営利の社団法人、と教えられる。しかし、その実際は、むしろ意思無能力な財団であって、その後見人としての支配権と正当性が、歴史的、社会的に揺らぎ続けている。/
しかし、この次の段階において、「発起人」はまた、それぞれに株式を引き受ける。この株式引受は、株式発行と違い、もはや共同の合同行為ではなく個別の契約行為であり、それゆえ、これは、「発起人」としてではなく、すでに「株主」として行われる。つまり、合同行為である〈プロト株式会社〉から、それぞれが「株主」として株式を買い取るのである。ここにおいて、〈プロト株式会社〉は、配当契約などに関して利害の相反性を持つ「株主」とはすでに独立の存在であり、また、以後の「発起人」の集団は、事実上の「株主総会」となる。
株式引受による出資は、株式、すなわち、「株主」としての権利(自益権(配当受益権など)や共益権(総会議決権など))と対価の売買であるが、これによって、出資された財産は、その後、「株式会社」自身のものとなる。というより、個々の「株主」から出資された財産を一体に結合したものとして、〈財団〉として「株式会社」が措定される。この〈財団〉としての「株式会社」は、その所有する財産を一括担保(『工場抵当法』11等参照)とすることによって、実質的な〈経済行為能力〉を持つ14。それゆえ、これを法人として、その法律的な「経済行為能力」(権利能力)を付与することが適当である。
ところが、「株式会社」そのものは、単なる〈財団〉であり、直接的には意思能力を持たない。それゆえ、「株式会社」の親にも相当する「株主総会」は、みずからこれを代表することもできるが、経営の高度の専門性に鑑み、バーリ&ミーンズが言う「所有と経営の分離」として、いわば親権を辞し、代わって「株式会社」を後見させしめるために、「取締役」を選出する。すなわち、「株主総会」は、事実上の親権者として、「株式会社」を代表して、「取締役」を委任する。したがって、ここにおいて、「取締役」は、代表者である「株主総会」ではなく、本人である「株式会社」そのものから委任される、ということになる。
「取締役」は、三人以上であることが規定されており(『商法』255)、彼らは、「取締役会」を結社する。そして、この「取締役会」が、「株式会社」の業務執行を決する(『商法』260)。すなわち、「株式会社」の〈意思行為〉を代表するのは、個々の「取締役」ではなく、あくまで「取締役会」である。その議決は、一人一議決権の原則を持つ(『商法』260ノ2)ことから、これは〈人的会社〉とみなすことができる。そして、実際の経済行為などにおいては、その〈表示行為〉が必要となる。それゆえ、「取締役会」において、「取締役」の中から互選で「代表取締役」が選出される。この「代表取締役」は、あくまで「株式会社」の〈表示行為〉を代表するのみであって、その〈表示行為〉は、「取締役会」が代表する「株式会社」の〈意思行為〉に準拠する。この意味において、「代表取締役」は、事実上、「取締役会」の監督に服さなければならない15。
哲学
2017.06.28
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2017.11.19
2017.11.22
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。