/カントは、哲学最大の大物。彼は、1 経験主義と合理主義を一本化し、2 批判哲学を立て、 3 実践哲学を開いた。/
カントと言えば、哲学最大の大物。でも、なにをした? 答えは3つ。
1 経験主義と合理主義を一本化した
2 批判哲学を立てた
3 実践哲学を開いた
まず、経験主義と合理主義。ルネサンス以降の近代において、実例を多く集め、比較対照することでこそ確かな知を確立できる、という《経験主義》と、原理原則から論理的に敷衍して行った方がいい、という《合理主義》と、二つの戦略が対立。あれこれ言い争った。経験主義から言わせれば、論理そのものが過去の経験の蓄積の結果であって、そんなに絶対的なものではない、と言うし、合理主義の方も、実例なんて言ったって、最初から錯覚や誤差だらけで、そんなもの、最初から話にならない、と言う。
これらに対し、カントは、認識や推論というのは、実例を論理に取り込むことだ、とし、その論理は、実例の蓄積の結果ではなく、どんな実例よりも先にあって、なんの実例もまだ含んでいない純粋な主観そのものの枠組だ、とした。
たとえば、時空間。すべてのモノは、それぞれ、それの「いまここ」にあるだけ。それを、主観が、〈ここ・そこ・あそこ〉〈さっき・いま・あとで〉に位置づける。そもそも、すべての感覚は、主観の「いまここ」の話。網膜が刺激された、鼓膜が振動した、というだけ。しかし、主観は、それに原因を想定し、自分の外側の時空間に対象として位置づける。ぶぉーん、と聞こえたら、さっき、あそこを車が通った、というふうに。
つまり、時空間は、世界の側に絶対的に存在するのではなく、主観が受けた刺激を外界の原因として書き戻すために主観が持っている、主観の中の主観的な座標軸。私にとっての〈ここ・そこ・あそこ〉と、あなたにとっての〈ここ・そこ・あそこ〉は、まったく別のもの。まして、〈さっき・いま・あとで〉も、私にとってと、百年前の人にとって、とは、まったく別の座標軸。おまけに、その単位も違う。子供の一日は、いろいろできるほど長いが、大人の一日は、あっという間。〈あとで〉というのも、ひとによって、今日中なのか、今週中なのか、そのうちなのか。
同様に、〈すべての〉とか、〈この〉とか、〈とある〉とか、〈である〉とか、〈でない〉とか、〈なのか〉とか、〈かもしれない〉とか、〈にちがいない〉とか、などなども、実は、対象の側の概念ではない。これがまさに〈すべて〉だ、などというものは実在しない。主観がかってに主観的に認識に対象を取り込むためだけの枠組。
哲学
2017.07.20
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2018.06.03
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。