/カントは、哲学最大の大物。彼は、1 経験主義と合理主義を一本化し、2 批判哲学を立て、 3 実践哲学を開いた。/
推論というのも、概念そのものを分析してわかるか、主観上で総合してわかるか、のどちらか。犬は動物だ、というのは、動物でなければ犬でないので、実際の犬を調べてみるまでもない。一方、さっき山田さんは会議室にいた、というのは、〈山田さん〉の認識と〈会議室〉の認識が、主観の時空間で重なっているからこそ。実物の山田さんと実物の会議室とが主観を介してこそ繋がる。
ようするに、合理主義というのは、それそのものは主観的で空っぽ。主観的な経験がなされて、その経験の原因が主観の時空間に書き戻されてこそ、そこから合理的な推論が発動する。経験無しに合理主義だけではなにも推論できないし、逆に、主観の合理主義的な枠組無しには、なにも経験することができない。
つぎにここから、カントは、批判哲学を立てる。「批判」というのは、ただ非難するというのではなく、どれだけで、どれ以上ではないのか、見極める、ということ。これまで、哲学は、自分とは、世界とは、神とは、とか、好き勝手に語ってきた。しかし、カントに言わせれば、〈自分〉とか〈世界〉とか〈神〉とは、時空間や〈すべて〉〈かもしれない〉などと同様の純粋概念であって、さまざまな経験を整理するための枠組としては使えても、それが時空間の中にあるモノであるかのように扱うのは、「理性の越権」。言わば、これらは地平線であって、それに近づけば、逃げ水のようにさらに、その向こうに行ってしまって、けっしてだれもその向こう側からそれをまとめて認識することはできない。つまり、自分や世界や神について、あれこれ語っても、ぜんぶ妄想の与太話で、時間のムダ。そんなものについて認識する能力を、人間は、はなから持ち合わせていない。
この批判哲学は、哲学そのものの限界を明らかにした、というだけでなく、不可能であるということが論証される、ということでも画期的だった。これまで、人間は、なにかできないことがあると、どうにかしてできる方法を探そうとしてきた。しかし、ここにおいて、できる方法が絶対に存在しえない、ということがある、ということが、明らかになり、大きな発想の転換がもたらされた。たとえば、五次以上の方程式には、絶対に解の公式が存在しえない。これは、カントのすぐ後、方程式を解きうるための条件を綿密に考察していくことによって、アーベルやガロアによって証明された。
しかし、第三に、カントは、実践哲学を開く。人間は、物事を認識するだけの主観的な存在ではなく、手足の付いた半身はモノそのものの世界に埋め込まれている。〈自分〉が何であるか、など、考えてわかることではない。だが、わかることではないからこそ、自分でなんとでもできる。同様に、〈世界〉が何であるか、など、考えてわかることではない。だが、だからこそ、なんとでもできるのだ。つまり、認識に限界があるからこそ、その向こうに自由が開けている。これまでどうだった、という事実は、これからどうなるか、を決定しない。なんとでもなりうるのだ。
哲学
2017.07.20
2017.08.02
2017.08.30
2017.09.09
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2017.11.22
2017.12.31
2018.06.03
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。