/教科書では、株式会社は、物的な営利の社団法人、と教えられる。しかし、その実際は、むしろ意思無能力な財団であって、その後見人としての支配権と正当性が、歴史的、社会的に揺らぎ続けている。/
おわりに
現代において、すべての自然人に基本的人権が認められるほどに、社会の成員としての資格が拡大した結果、先進諸国では、中間的な〈村落〉や〈家族〉などの社会主体は極端に〈意義〉を縮小し、〈個人〉が《社会成員原理》となるに至った。その一方、上述の議論のように、経済活動の〈意義〉が増大し、経済行為能力のみを事由として、〈企業〉の存在が巨大化した。ここで詳述はできないが、〈国家〉もまた、すでに実在してしまっている権利能力や行為能力から逆に遡及的に措定される広義の〈財団法人〉であって、国民の〈社団〉としての政府など、「民主主義の神話」にすぎないのであろう。
〈法人〉が〈社団〉から発生する、という《契約説》は、本論で検討したように、たしかに、「株式会社」の発生の事実問題のメカニズムとしては、「発起人」の合同行為という意味で、それほど外れていない。というより、この法律構造そのものが、《契約説》の影響下で確立された、と、理解する方が正しいのであろう。しかしながら、このようにして設立された「株式会社」そのものは、それが独立の法人となりうるという権利問題から言えば、これもまた本論で考察したように、その設立の過程における「発起人」の合同行為とも、株式売買としてそれと最初の契約を行う株主たちからなる「株主総会」とも独立の存在であり、その設立から解散まで、および、その機能において、本質的に〈財団法人〉である、と思われる。そして、この「株式会社」という〈財団法人〉は、その財産の一括所有によって、実質的な経済行為能力を持ちながら、意思能力を欠くために、一般の意思無能力者と同様に、後見人として意思を代表する「取締役会」、意思の表示を代表する「代表取締役」を設定され、後見監督人として「株主総会」が機能する。
「株式会社」は、その最初の「コンメンダ」からして、〈財団〉、ファンド(投資信託)であるにもかかわらず、これを「合名会社」のような私的な人的会社の延長として法体系を確立してしまったことは、今日のように、「社団法人」に擬制する「財団法人」というような、社会通念からも逸脱する、わかりにくい制度を生み、「株式会社」の社員である「資本家」と、「株式会社」から疎外された「労働者」の対立というような、社会そのものを分断する無用の混乱も引き起こしてしまった。
「株式会社」の典型とされる十九世紀アメリカの鉄道会社にしても、公共的大事業のための巨大資本の必要性から広く財産の寄附を募ったのが原型であり、純粋に営利だけを目的とするのであれば、株式そのものによる利益を目的とするのでもないかぎり、税制上の理由などから「株式会社」に擬制するだけの日本のオーナー企業のように、一般市場で株式を公開することは、もとよりばかげている。そもそも、今日、事業に公共性がないならば、大企業を維持するほどの収益性もない。そして、実際、金融保険や交通機関、流通製造、すべての分野において大企業の安定営業の公共責任が求められる。
哲学
2017.06.28
2017.07.04
2017.07.20
2017.08.02
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2017.10.18
2017.11.19
2017.11.22
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。