/教科書では、株式会社は、物的な営利の社団法人、と教えられる。しかし、その実際は、むしろ意思無能力な財団であって、その後見人としての支配権と正当性が、歴史的、社会的に揺らぎ続けている。/
一方、行政の補完として位置づけられていたはずの公益法人の私的な経営姿勢が問われる。「社団法人」の定款は、憲法を、「財団法人」の寄附行為における定款相当事項は、遺言をモデルとしたものであろうが、しかし、いかに公益法人であれ、政府や官庁も含め、いったん法人として創設されてしまった以上、その定款または寄附行為による目的を追求するために、その経営者(理事、取締役)や従業員とともに、まさしく独立の人格として、みずからの私的な幸福、すなわち、権力の拡大、財産の増大、地位の向上などをめざすのは、むしろ自明であり、公共の福祉に反しない限り、法人もまた国民として、このことはある意味で『憲法』13の「幸福追求権」で保障されざるをえない。
しかし、私企業にしろ公企業にしろ、その財団としての強大な経済行為能力は、けっして自己目的であってよいものではあるまい。擬制的にせよ、その存在を社会が容認し、法人としての主体性を期待する以上、その存在意義として、そこに社会的な秩序の再構築という〈正義〉のサーヴィスが求められるのではないか。そもそも、なんらかの〈正義〉としての経営理念がなければ、「会社」は、「会社」として存立しえないのではないか。
注
1 財団法人などの細々した議論は、本論に譲る。
2 内閣法制局法令用語研究会編:『法律用語辞典』、有斐閣、1993
3 術語と概念の区別は、本章では充分に注意を払われなければならない。というのも、本章の主張は、「株式会社」は、法律上は「社団法人」であるが、実質上は〈財団法人〉である、というものだからである。
4 [実質的/法律的]という対立概念は、擬制の問題を扱うために、本章の基本図式となる。この区別は、行為、能力、主体、などにも用いられる。
5 個々の会社の存立に関しては、通説上、準則主義として57条が挙げられるが、「営利法人」という概念そのものの法体系内における存立根拠としては、52条②が妥当であろう。
6 「商行為」は、『商法』において、「絶対的商行為」(501)、「営業的商行為」(502)、「附属的商行為」(503)の三つに分類されている。「絶対的商行為」は、単独の行為に対して形式的に規定されうるものであり、差益という目的、転売という立場、取引所という場所、商業証券という対象、のいずれかに関わるものがこれに相当する。これに対して、「営業的商行為」は、単独の行為としてではなく、賃貸、製造、運搬など、継続反復的な「営業」としてこれをなすときにのみ、「商行為」とみなされるものである。最後の「附属的商行為」は、「営業ノ為ニスル行為」(503①)であり、「商人」の行為は、すべてこの「営業ノ為ニスル行為」であると推定される(503②)。
7 先述のように、「会社」は、法律上の定義、〈会社〉は理論上の概念を意味する。
8 これらにおいて、「社員」というのは、言うまでもなく、雇用された従業員などではなく、「社団法人」を構成する成員、たとえば、「株式会社」であれば、株主のことである。
9 特定の個人を「植物人間」と表現することには、おおいに問題があると認識されなければならないが、ここではあくまで理論考察上の術語として、この言葉を一般概念として利用することにする。
10 ホッブズにせよ、ロックにせよ、契約論は、より正確に言えば、事実問題に関する虚構の神話なのではなく、権利問題を問うための、あくまでデカルト的な方法論的思考実験である。この方法は、近年、ロウルズが再興し、おおい注目を集めている。ただし、ホッブズやロックの古い契約論が、法人設立のための単純な同時的な「合同行為」であるのに対し、ロウルズの契約論は、補填を予約する保険として時間的な「相互行為」となっていることに注意する必要がある。本章においても、後述するように、「株式会社」に関して、現行法体系が要件とする「合同行為」としての設立よりも、利益の公正な分配のための時間的プーリング機能を重視する。
11 この言及において、我々は、すでに《国家法人説》をも射程に捉えている。本章で詳述することはできないが、政府も官庁も、もとより広義の〈財団法人〉であり、将来的には、市場維持機能を除いて、一般の民間企業のサーヴィスの公共性とシームレスなものになっていくのではないだろうか。
12 イエスの厳格律法など、宗教は、しばしば意思行為を問題にする。たとえば、十戒に「殺すなかれ」とあるのに対して、イエスは、「殺そうと思うなかれ」、さらには、「敵を愛せ」という意思を問う。そして、このように、意思行為への規範介入の有無が、宗教と法律とを区別するものとなる、としばしば言われる。
13 もちろん、「後見人」が一人に限定される(『民法』843)のに対して、「理事」は一人に限定されない(『民法』52)などの相違はある。しかし、我々が問題としているのは、表層的な形式ではなく、ここにある法哲学的な理論構造の同一性である。
14 「株式会社」の〈経済行為能力〉は、この一括担保化により、個々の「株主」が出資する財産を担保とする〈経済行為能力〉の総和よりも大きい。これは、工場において、個々の機械の担保価値より、一体の工場としての担保価値の方が実質的に大きいことから、『工場抵当法』11において、法律的にもこれを「工場財団」として認めていることと、法哲学的精神として平行する。そして、この点にも、「株式会社」の〈存在意義〉があると言えるだろう。
15 もちろん、日本の「株式会社」の実際からすれば、「代表取締役」の一人である「社長」が「株主総会」の議事進行を決定する議長を務める慣行において、「社長」によって議案として「株主総会」に提起されないかぎり、「取締役」として「株主総会」に選出されることもない。また、逆に、本人の意向とかかわりなく「取締役」辞任の議案が提起されてしまった場合、「株主総会」によって承認されてしまう危険性が高い。このために、「取締役はもちろん、「監査役」も、「社長」、または、「社長」に圧力をかけうる他の「代表取締役」(会長、副社長、専務など)のイエスマンとなり、これらの「代表取締役」は、以下、カスケード状の人事権の連鎖によって、従業員の末端まで、それぞれの派閥を形成する。それゆえ、日本の「株式会社」では、実際の重要事項は、公式の「取締役会」ではなく、それぞれの派閥の長である一部の「代表取締役」たちによる非公式の「最高幹部会」において、事前に調整され決定されるのが一般的である。
16 このような〈監督〉権限の欠如から、「監査役」は、複数存在するとしても、合議的な〈社団〉を構成しえない。
17 そもそも、一般に、商人はその商行為に関して裁判所の命令を遵守する義務を負う意味において、裁判所は、単なる司法機関としてではなく、事実上、社会的に、商人一般の上位行政監督機関としても機能しているということができる。したがって、我々は、ここに、[家庭裁判所>後見監督人>後見人>意思無能力者]という行政図式と平行して、[裁判所>株主総会>取締役会>株式会社]という行政図式を認めることができる。そして、これは、[主務官庁>(社員総会(「社団」のみ)>)理事会>公益法人]という行政図式に対応する。
18 たしかに、「株主総会」は、本人である「株式会社」と配当契約に関して利害の相反性があるが、このことは、「後見人」と違って(参考『民法』860)、一般の「後見監督人」と同様に、その欠格事由とならない。また、「取締役」についても、これが株主である場合、「株式会社」の後見人たるには、同様の利害の相反性があるが、一般の「後見人」の場合と同様に、「株主総会」という後見監督人があることによって、欠格事由とならない(参考『民法』860)。
19 たとえば、托鉢修道会のようなものは、その社団としての目的とする活動を営むために、もとより「資産」(目的とする活動に必要な財産)を必要としていない。
20 もとより『民法』が、この「雇用」に関し、当時の個人商店などの実状からみても異様な、個人と個人の外注契約をモデルとしている上に、労働関係の法律が、使用者と労働者を対立図式で考えるマルクス主義の影響下で構築されたために、このような事態に至ったのであろう。
21 社会学的に正確に言えば、巨大資本を持つロスチャイルド家なども、経営に関して、すくなくとも男は自分で働かなければならない、という意味で、せいぜい「アッパーミドルクラス」である。「アッパークラス」は、貢納や年金によって男女ともに消費のみで生活する王侯貴族に限定される。このような意味でも、「資本家」対「労働者」という図式は、歴史的な事実性を欠いている。
22 このように、「中間管理職」、すなわち、「雇われ経営者」と「労働者」とが、同じ労働者にもかかわらず、それぞれ「資本側」「労働側」として対立したのであり、「資本家」と「労働者」の直接対立ではない。しかし、このことは、ロックフェラーをはじめとする当時の巨大資本家の行動が、一般市民と利害対立しなかった、などということを主張しているのではない。ただ、このような問題は、思弁的な図式によってではなく、歴史的な事実において論じられるべきであろう。
23 もちろん、「正社員」が「社内労働組合」を結成する場合は、この限りではない。しかし、この〈社団法人〉としての「社内労働組合」もまた、「株主総会」や「取締役会」同様、けっして「株式会社」そのものではありえない。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。