/教科書では、株式会社は、物的な営利の社団法人、と教えられる。しかし、その実際は、むしろ意思無能力な財団であって、その後見人としての支配権と正当性が、歴史的、社会的に揺らぎ続けている。/
この《社会成員原理》の問題は、歴史的には、〈個人〉、すなわち、領民や奴隷、そして、女性や子供に社会の構成員としての資格があるのか、という図式で提起され、宗教や国家や村落や家族などの〈法人〉の代表者(祭司、国王、領主、家長)に対して、その他の一般個人が、代表権を制限し、参与権を請求する、という形式で、議論が発展拡大してきた。このため、その議論は、基本的に、その〈法人〉の存在を前提して、その代表権や参与権について争われたのであり、〈法人〉の存在そのものについては、ギールケを待つまでもなく、プラトーン・ホッブズ以来の《社団説》、すなわち、成員より上位の有機的結合団体、という以上の理論モデルを我々は持ち合わせていなかった。それゆえ、その後、これらの〈共同体(ゲマインシャフト)〉とは別に、企業のような〈機能体(ゲゼルシャフト)〉としての〈法人〉が創設されるにおいても、むしろこの唯一の理論モデルである《社団説》に依拠し擬制した、と理解することができる。つまり、企業法人は、本質的に〈社団〉であるのではなく、その創設に際して形式的に〈社団〉という理論モデルを利用した、ということである。
なぜこのような奇妙な議論を提起するか、と言うと、政治学や法学というような場面を離れるならば、我々は、社会文化論的に、〈法人〉に関して、もっと別の理論モデルを持ちうるからである。すなわち、我々は、人間を含む〈共同体〉や〈機能体〉に限らず、社会文化論的に主体を措定する一般的な図式を普遍的に持っている。たとえば、雷という結果があれば、その原因として、遡及的に、雷を落とした主体として雷神を措定し、不幸という結果があれば、その原因として、遡及的に呪いをかけた主体として悪霊を措定する。これと同様に、我々は、所有者未詳の財産がある場合もまた、その権利の帰属点として、遡及的に、その財産を所有する権利主体を措定する。「山の主」「森の主」「川の主」「池の主」「地の主」などと呼ばれるものがそれである。もちろん、それらは、直接的な意味で実在するわけではないので、これらの主体に関して、論争が戦争になることもあるが、これらの論争や戦争の結果、それらは、その後、統一的な神話へと文化的に整理され、文化的な共通了解となる。
国家などの〈共同体〉に関する《社団説》も、もとよりむしろ「王権主義の正当性の神話」「民主主義の正当性の神話」であり、「神話」にすぎないからこそ、容易にホッブズとロックで主旨を逆転することも可能なのである10。すなわち、国家もまた、すでに存在してしまっている国土や国民という所有者未詳の財産を所有する権利主体として、遡及的に措定されたものであると考えることができる11。
哲学
2017.06.28
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2017.11.22
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。