/十八世紀、メイソンリーという新たな国際ネットワークの中で、新旧両教の対立は大きく構図を変え、北米、南米、エジプトへの近代十字軍の構想とともに、えたいの知れない山師たちが各地で暗躍するようになる。/
「そもそも、一二一五年の『マグナカルタ』以来、課税は議会承認が必要だということになっていたんだが、新大陸にスタンプ税を作った大ブリテン議会には新大陸諸州の代表は入っていなかった。代表無くして課税無し、というやつだ。おまけに、そもそも東岸中部のニュージャージー州などは、あいかわらずカトリック・ジャコバイトの僭称王チャールズ三世を担いでいたわけで、七年戦争での大ブリテンとの同盟国ではあっても、大ブリテンに課税される大ブリテンの領土じゃない、と思っていた」「ややこしいな。新大陸植民地の方はフランスにいるイングランド・スコットランド王を王としていて、大ブリテン本国はドイツ人のハノーファー選帝公を王としていた。それで、いくら大ブリテンの正規軍が駐留しているからとはいえ、新大陸植民地まで、ドイツ人ハノーファー選帝公の直接課税権限が及ぶのか、おおいに疑問だ、というわけか」「在日米軍が日本に直接に課税徴収するような話だったんでしょうかね」
「面倒くさいことに、このころ大ブリテンは、ほかでも勝ちすぎていた。話は、ジンギス・カンにまで戻るんだけどね」「モンゴル帝国ですか。千二百年ごろですよねぇ」「十字軍と同時代だな」「そう、あの時代、東洋と西洋が両側から中近東に押しかけて、イスラム帝国の繁栄の遺産の掠奪をやったんだ。だけど、問題は、その後。ヨーロッパは、オスマン朝トルコに押し戻されてしまったけれど、モンゴルの方はむしろ東から中国の明朝に追いやられて南下し、イランやインドに住み着いてしまった。これが、ティムール朝やムガール帝国」「ああ、ムガールってモンゴルのことだもんな。でも、それが、なんで新大陸と結びつくんだ?」「東インド会社は、あくまでムガール帝国との国策貿易会社だったんだよ。ところが、十八世紀の半ばになると、地方太守たちが中央から離反して混乱に陥っていったんだ。こんな状況じゃ貿易もできないって、東インド会社自体が自前の武装でインドの内乱に突っ込んでいき、ヨーロッパの七年戦争と呼応する一七五七年のプラッシーの戦いに勝って、インド東側のベンガル湾一帯の事実上の一大太守になってしまった」「つまり、植民地直轄化だな。それの方が話が簡単だったんじゃないのか?」「とんでもない。商品しか扱ったことのなかった貿易会社が、現地人の面倒をみなければならなくなったんだぞ。ただでさえ昔から人口過剰なインドだ。おまけに一七七〇年には人口の三割が餓死するほどの大飢饉。それで、中国茶を新大陸で安く売って、少しでもどうにかしようとしたんだが、新大陸の連中は、それにすら反発した」「新大陸の人々は、地球の裏側のインドの大飢饉なんて、考えたこともなかったでしょうね」
歴史
2017.08.12
2017.10.04
2017.10.23
2018.01.28
2018.02.17
2018.07.10
2018.07.17
2018.07.24
2018.08.17
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。