十八世紀ヨーロッパの山師たちを巡る対話:フリーメイソンと外交革命

2018.02.17

開発秘話

十八世紀ヨーロッパの山師たちを巡る対話:フリーメイソンと外交革命

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十八世紀、メイソンリーという新たな国際ネットワークの中で、新旧両教の対立は大きく構図を変え、北米、南米、エジプトへの近代十字軍の構想とともに、えたいの知れない山師たちが各地で暗躍するようになる。/

「つまり、南チロルのあたりは、両大国に、いいように分割されてしまった、ということですね」「でも、うまく立ち回ったやつもいるよ。ベルガモの北の谷間の村のタッシ(あなぐま)家なんて、子供たちがそこでは暮らせず、各地へ散っていかざるをえないような貧農だった。ところが、道無き道でも馬に乗れ、各地に親族が散らばっていたので、ミラノ公国のロンバルディアでの領土拡大とともに、文字通り、その使いっ走りとしてヴィスコンティ家に便利がられたんだ」

「貧しい生活が強みになることもあるものですねぇ。でも、使いっ走りじゃ、知れたものでしょ?」「ところが、タッシ家は、これがけっこうな商売になることに気づいて、ミラノ・ヴェネチア・ローマを結ぶ通信配達業を始めたんだ」「でも、それだって、そんなに儲かるようには思えませんけれど」「タッシ家は、通信を扱っているだけに、時代を読むのがうまかったんだ。十五世紀半ばにミラノ公国の実権がヴィスコンティ家からその娘婿の傭兵スフォルツァ家に移ってしまう一方、ヴァネチア共和国がロンバルディア内陸部まで勢力を伸張してくると、そっちに乗り換えたんだ。ヴェネチアを後押ししている皇帝ハプスブルク家に取り入って、宮廷のある現ベルギーのブリュッセルから、イタリアの南の果てのシチリア島まで、通信網を拡大していった」

「あ、タッシ家って、ドイツ名でタクシス家のことですか。でも、トゥルン・タクシス家って言いませんか?」「三十年戦争が始まる前の一六〇八年、皇帝から男爵に取り立てられ、十五年には帝国郵便総監となった。だけど、貴族なのに領地名がないとかっこ悪いということで、三十年戦争後の一六五〇年、かつてヴィスコンティ家が滅ぼしたミラノ・トッレ家領を名乗ることを皇帝から認められたんだ」「トッレ家のドイツ語名がトゥルン家なんですね」「宗教改革のころのイタリア戦争以来、ミラノはたしかに皇帝ハプスブルク家のものになっていたけれど、トッレ家領なんて名前だけだよ。タクシス家は、一六九五年には一気に侯爵にまで昇格させてもらったが、住んでいたのはあいかわらずブリュッセル宮廷の中」

「結局、タクシス家って、貴族というより、サラリーマンなんですね。わたしも、父の銀行勤めのせいで、転校ばかりさせられてました」「でも、ハプスブルク家の宮廷は、とっくにウィーン市に移ってしまっていただろ」「ああ、一六八三年から九九年の大トルコ戦争で、東からオスマン・トルコに脅かされ、一七〇一年から一三年にかけてのスペイン継承戦争で、スペイン王国も宿敵フランス・ブルボン家に奪われてしまったからな」

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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