/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/
いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。
幕末の蘭癖
17世紀初頭、北米東岸は、オランダ東インド会社の植民地だった。しかし、英蘭戦争(1665~67)で大英帝国に割譲。ところが、独立戦争(1775~83)後、その戦費返済のため、中立だったオランダ系米国人たちに、良好な元英国派領地が破格の安値で払い下げられた。これを元手に、19世紀には、鉄道王ヴァンダービルト家やガラス王ルーズベルト家など、オランダ系米国人が経済の中心に躍り出る。かれらの多くが熱心なカルヴァン系オランダ改革派教会を信奉しており、莫大な資金を注ぎ込んでアジア進出を目論んだ。
一方、日本では、1716年、第8代将軍吉宗は、享保の改革の一つとして、洋書の輸入を解禁。第8代薩摩島津家重豪(しげひで、1745~1833)は、「蘭癖(オランダかぶれ)」のはしりで、長崎まで出向き、オランダ語を学んでいる。また、豊前中津の奥平家も、長崎警備を命じられ、蘭学に力を入れていた。1774年には、その江戸屋敷で、侍医前野良沢らが『解体新書』を翻訳出版し、中津奥平家第3代昌鹿は、彼に「蘭毛(蘭学のバケモノ)」との号を下賜した。重豪の次男で奥平家に養子に入った第5代昌高(1781~1855、29歳)に至っては、江戸屋敷に「オランダ部屋」を作って買い集めた文物を飾り、また、みずからオランダ語を学んで、1810年には『中津辞書』を作らせ、フレデリックヘンドリックと名乗った。
1823年、長崎出島オランダ商館医としてシーボルト(1796~来日1823~帰国30~再来日59~再帰国62~66、27歳、じつはドイツ人密偵)が来日、島外で塾をつくって西洋医学を教えた。26年には、島津重豪(81歳)、奥平昌高(同次男、45歳)、島津斉彬(同孫、1809~58、17歳)の蘭癖三代がシーボルトのもとを訪れ、オランダ語で会話し、弟子となることを願った。しかし、28年、シーボルト事件として、所持品に御禁制の地図などがあることが問題になり、翌29年、国外追放。オランダに大量の日本の文物のコレクションを持ち帰り、『NIPPON』(1832~51、全20回分冊配本、蘭語、図版多し)を自費出版。これによって、にわかに日本が諸外国に注目されるところとなる。
歴史
2018.02.17
2018.07.10
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2020.01.01
2020.02.19
2020.02.29
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。