/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/
だが、洋行帰りの講演興行主、江木高遠(30歳)は、日本の美術品は米国で売れる、と目を付け、安値で買い集めた。それを知って、講演者のモースやフェノッロサも、学生の岡倉天心(1863~1913、16歳、横浜貿易商の子)を通訳にして名家に取り入り、全国を巡り、ありあまる給金で日本画や工芸品を買い漁った。ここに、パリ万国博覧会(78.5.20~.11.10)のために渡仏していた少壮文部官僚九鬼(25歳)が、現地でのジャポニズム人気を知り、79年5月に帰国すると、モースやフェノッロサと合流。だが、モースは、79年8月で契約満了となり帰国。日本話の巡回講演で、また荒稼ぎ。79年末、江木は、外務省書記官となり、翌80年、ワシントンに赴任。しかし、美術品密輸出が発覚し、6月に公館内で拳銃自殺。一方、同80年、東大を卒業した岡倉天心(17歳)は、文部省に入り、九鬼(26歳)の腹心となって、師フェノッロサの強引な買付を支援。
67年のパリ万博、73年のウィーン万博に関わってきた佐野常民(58歳)は、西南戦争直後の77年8月に上野公園で第一回内国勧業博覧会(8.21~11.30)を開き、殖産興業に努めてきたが、81年の第二回(3.1~6.30)は、第一回の4倍もの出品に、82万人以上の来場者を集め、大成功した。ここにおいて、日本の美術品の価値が見直され、その振興保護のため、愛好家の龍池会が結成され、翌82年までに260名を越える組織となる。
このころ、政府は、もはや自由民権運動に抗しきれず、国会開設と憲法制定に舵を切る。大蔵閥の大隈(43歳)や福沢(46歳)慶応一派は、いまだに米英べったりで、さらに外債を増やしてでも、結託する財界を盛り上げ、早期に民主化すべきだ、とした。しかし、その米英こそが、不平等条約の改正を強硬に拒み、財貨を流出させ、日本を窮地に陥れている元凶にほかならない。
一方、故大久保から内務卿を引き継いだ伊藤(40歳)は、財政窮乏のため、費用膨大な北海道開拓使の払い下げ民営化を計画。これに大隈や慶応一派が、民業圧迫として噛みついた。81年8月31日、伊藤は大隈と慶応一派を追放。明治14年政変と呼ばれる。文部官僚九鬼(29歳)は、慶應出ながら、反福沢として残留。同年10月、勅諭によって、国会開設は十年後の1890年に先送りされ、翌82年、伊藤は、ドイツを訪問。以後、絶対帝政のドイツを範とする国会と憲法が模索される。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。