大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

2018.08.17

開発秘話

大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/

一方、講義録を見るに、モースやフェノッロサが説いた通俗的進化論は、ダーウィンやスペンサーの先進の多様性思想を正確に模したものではなく、それらより古い、『痕跡』の聞きかじりに、フォイアーバッハの唯物論的なキリスト教批判と、マルクスの階級闘争を帝国主義競争にすりかえたものを混ぜ合わせたような体裁で、自由放任を主張するスペンサーとはむしろ真逆に、国家無くして権利無し、と主張し、強制的軍事社会としての国民団結の必要性を説くものだった。しかし、これこそが、地租改正(73、金納税制)で不平士族のみならず地方豪農を巻き込んで隆盛する自由民権運動と対抗するために、政府が必要としていた思想にほかならない。

フルベッキや慶応に学び、ニューヨークのコロンビア法律学校を卒業して東京英語学校教諭となった江木高遠(1849~1880、29歳)は、78年6月、米国風の庶民向け教養講演会を企画。モースを呼び、通俗的進化論を語らせ、浅草に500人以上の客を集める。この成功を受け、9月にはこれを会員制の江木学校とし、モースやフェノッロサだけでなく、福沢諭吉(43歳)や加藤弘之(42歳)なども巻き込んで、錚々たる文化人を揃えた。


日本美術品とドイツモデル

西南戦争の負担と、東京大学の創設は、国家予算をさらに傾けた。経費節減のため、各省庁は、法外に高額な報酬を必要とするお雇い外国人たちを半分以下にまで減らす。工部美術学校の洋画家フォンタネージ(60歳)も、78年9月に帰国。その助手となっていた小山らも退学。とはいえ、当時、洋画は人気で、小山たちは、いくらでも喰っていくことができた。新政府の官僚はもちろん、新興の財界人たちが、次々と洋館を建て、そこに洋画を飾ったからである。功遂げ、名を成せば、みずからの肖像画も依頼。

一方、日本画や工芸品は、危機的な状況だった。もともと江戸時代において、もはや所領の加増の余地が無かったため、幕府や家中から褒賞は美術品で行われた。転封(国替え)も頻繁に行われたため、動産の美術品は、武家にとって好都合でもあった。豪農にしても、都市の頻繁な経済変動を避けるべく、美術品で蓄財。これらは、金貨以上に価値が安定した現物貨幣として、広く全国に流通していた。ところが、明治になると、かろうじて陶磁器のみが訪日外国人たちの土産となり、わずかに輸出品となったくらいで、その他の大量の美術品が行き場を失う。没落した武家、とくに敗軍幕府方の士族が生活のために換金しようにも、値が付かないほどの投げ売り。廃仏毀釈で檀家を失って困窮した寺からも、多種多様な美術品が放出された。くわえて、税を金納させる地租改正は、美術品で蓄財してきた豪農たちをも窮地に追いやり、政府に不満を持つ士族や豪農の自由民権運動は、ますます強まった。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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