/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/
これと並行して、函館戦争後も北海道開拓次官となっていた黒田清隆(1840~1900、31歳、薩摩島津家下士の出)も、71年1月から5月まで、米国およびヨーロッパを歴訪し、お雇いにふさわしい外国人を探索。また、71年12月、大久保(41歳、士族派)や木戸孝允(桂小五郎、1833~77、38歳、皆兵派)、伊藤博文(30歳)、津田梅子(1864~29、7歳、幕臣蘭学者の娘)を含む計107名の岩倉使節団が米国や、ドイツを含むヨーロッパ各国を訪問。米国では神学生新島(29歳)に会い、これを通訳としてヨーロッパにまで同行させる。また、オーストリアでは、大隈(35歳)と佐野常民(40歳)が小シーボルト兄弟(息子のアレクサンダーとハインリヒ)の助けを借りて日本館を出したウィーン万国博覧会(73.5~.10)にも立ち寄った。この使節団の最大の目的は、かつて江戸幕府が結んでしまった不平等条約の改正。けれども、この交渉で、まずキリスト教容認を押しつけられてしまう。また、帰路では、スエズ運河を経て、セイロン(現スリランカ)、シンガポール、サイゴン(現ホーチミン)、香港、上海などの英仏植民地も見学。
同じころ、72年、駐米代理公使森有礼(1847~89、25歳、元薩摩藩士)が、日本人留学生が多くいる改革派教会系ラトガース大学から、逆に、学校経営で実績のある哲学教授モルレー(1830~1905、42歳)を招聘。73年2月、キリスト教解禁。フルベッキ(43歳)は、開成学校教頭のポストをモルレーに譲り、みずからは宣教活動を開始。
73年9月、霞ヶ関に工部大学校ができる。これは、1学年数十人で、土木、機械、電信、造家、鉱山、化学、冶金、造船などを教えるものであり、辰野金吾(1854~1919、19歳、唐津小笠原家下士の子)や高峰譲吉(1854~1922、19歳、加賀前田家侍医の子)らが一期生として入学。外務省も、開成学校から語学課程を引き継ぎ、73年11月、東京外国語学校を創設。英仏独中露を教え、通訳を養成。74年12月、人数の多い英語科を東京英語学校として分離独立させる。
しかし、経済状況の悪化は、旧来の武士、とくに幕府敗軍方を困窮させた。殖産興業が間に合わない。留守居政府の西郷隆盛(1828~77、44歳)や黒田清隆(32歳)らは、その対策として、北方警備を兼ねて北海道を開拓する屯田兵を考え、72年、函館戦争以来、投獄されていた榎本(36歳)を特赦で解放。5月、東京芝増上寺の一画を開拓使仮学校として、志願者120名を養成する。ここにおいて、現地調査で石狩平野(空知・夕張)に良好な炭田が見つかり、一同、開拓に期待を膨らませる。
歴史
2018.02.17
2018.07.10
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2019.01.21
2020.01.01
2020.02.19
2020.02.29
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。