/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/
弱腰の幕府は、薩摩島津家に和睦を勧め、島津家はやむなく、新たに蒸気船を買うということで賠償金(船の代金)を払うことにするが、その金も幕府からの島津家の貸付とし、結局、そのまま踏み倒す。一方、長州毛利家は、伊藤を通訳にして高杉晋作(1939~67、25歳)が講和に出、関門海峡の外国船の通行、通商、上陸を認めたが、賠償金については、毛利家は幕府の命に従っただけ、として、幕府に請求するように、とした。このため、翌65年11月、連合艦隊は兵庫港に迫り、幕府に賠償金の支払を求め、幕府もやむなくこれに応じる。しかし、孝明天皇(34歳)は、長州毛利家に激怒。幕府に長州征伐を求め、幕府はこれを実行。ところが、薩摩島津家は出兵を拒否。征討軍は瓦解。
大久保(35歳)は、西郷への書状で、「非義勅命は勅命にあらず」と、孝明天皇の蒙昧を切り捨てている。その後、時代錯誤の尊皇攘夷の連中を倒幕に利用するが、彼の考えは、もとより公儀開国。愚かな天皇など、激動する世界にあって、まったく使いものにならないことを痛感。新時代に備えるべく、すでに65年1月、寺島宗則(33歳)や五代友厚(29歳)らに引率させ、森有礼(1847~1890、18歳)ら、計20名を英仏米に留学させた。彼らは、現地で、長州毛利家留学生の遠藤(29歳)、山尾(28歳)、井上(22歳)と交流し、親交を深める。
幕府もまた、66年、御用儒者の中村正直(まさなお、1832~91、34歳、佐藤一斎の弟子)を監督として、外山正一(まさかず、1848~1900、18歳)ら14名を英国に送る。また、幕府旗本に取り立てられた福沢(31歳)は、66年から『西欧事情』(全6冊)を出版。政治から文化、社会、技術までを細かく紹介。その中には、米国独立宣言全文翻訳も含み、その平等と自由、幸福追求権や悪政革命権が示されている。68年1月に始まる戊辰戦争においても、福沢(32歳)は、中津奥平家蘭学塾を浜松町に移して慶応義塾とし、学生たちを関与させず、講義を続けたという。同年10月(旧暦9月)、明治に改元。
維新当初の大学構想
明治維新の直後から、日本にも大学構想はあった。元となったのは、京都御所内の学習院(1847~)。これは公家のための儒教漢学の学校であり、和学も講じられていたのだが、維新で勢い付いた尊皇派の国学者たちが、神道国学を主軸に据え、政経、文化、医芸、洋学の五学部体制にしろ、と騒ぎ出す。しかし、この構想はまとまらず、68年10月、学習院を漢学所、約130名とし、新たに皇学所、約108名を設置することとなった。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。