/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/
60年1月、通商条約批准のため、幕府は正使の新見正興ら90余名を米軍艦で派遣。これに、長崎海軍伝習所教授方頭取の勝海舟(37歳)ほか、ジョン万次郎(33歳)、福沢諭吉(25歳)ら、90余名も咸臨丸で随行。咸臨丸一行は、サンフランシスコから往復140日、5月にで帰国。新見らは、パナマ鉄道で大西洋に出て、ワシントンで大統領に謁見。大西洋を渡り、喜望峰を経て、11月に帰国。また、62年1月には、外国奉行竹内保徳ほか、寺島宗則(30歳、医師)や福地源一郎(1841~1906、30歳、英語通訳)、福沢(26歳)ら、計36名が英艦でヨーロッパ歴訪。駐日英国公使の日本コレクションが展示されたロンドン万国博覧会(62.5.1~.11.1)などを見学し、63年1月に帰国。
これと前後して、62年6月には、幕府は、蕃書調所の津田真道(1829~1903、33歳)と西周(1829~1897、33歳)、海軍伝習所二期生の榎本武揚(26歳)ら、計15名をヨーロッパに留学させる。長州毛利家も、63年5月、井上馨(1836~1915、27歳)、遠藤謹助(1836~93、27歳)、山尾庸三(1837~1917、26歳)、伊藤博文(1841~1909、22歳)、 井上勝(1843~1910、20歳)の「長州五傑」を英国へ密航させ、ベンサムが造ったオープンなロンドン大学の聴講生とする。また、64年6月には、幕府の築地軍艦操練所の学生、新島譲(1843~90、21歳)も、函館ロシア領事館司祭ニコライの仲介で米国に渡り、カルヴァン系の神学校で洗礼を受け、また、マサチューセッツ州アマースト大学で化学者クラーク(1826~86、38歳)に学ぶ。
しかし、巷では攘夷論が広まっていた。62年9月、横浜近くの東海道生麦村で島津久光の帰国行列四百名に、騎馬の英国人四名が乱入、これを斬り殺すという事件が起きる。第121代孝明天皇(1831~即位46~67、31歳)は、幕府に攘夷を迫り、幕府もこれを了諾し、長州毛利家に関門海峡封鎖を命じる。これを受け、63年5月10日、23日、26日、毛利家家臣の久坂玄瑞(1840~64、23歳、吉田松陰の弟子)らが航行中の米仏蘭船を砲撃。6月1日、米軍艦が下関港内の毛利家軍艦三隻を撃沈。5日、仏軍艦が前田と壇ノ浦の砲台を破壊、上陸して民家を焼き払う。しかし、長州毛利家は、関門海峡封鎖を解かない。8月15日、英国艦隊7隻が鹿児島湾に突入、島津家蒸気船3隻を拿捕放火。これに対し、島津家側では大久保利通(1830~78、33歳)が七ヶ所の砲台から反撃。城下を焼かれるも、英国艦を大破し撃退。故郷長州の危機を知り、井上(28歳)と伊藤(23歳)の二人は、英国から急遽、帰国。(他の三人、遠藤(28歳)、山尾(27歳)、井上(21歳)は、英国に残留。)英国公使らとの交渉に当たるが、64年8月5日、英仏蘭米連合艦隊、計17隻が関門海峡を総攻撃。毛利家は完敗。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。