大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

2018.08.17

開発秘話

大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/

同82年10月に農商務省が開いた内国絵画共進会も、文部官僚の九鬼(31歳)や岡倉(20歳)の策謀で、直前になって洋画の出展が禁じられ、財政悪化、お雇い教授の帰国、学生の離反、フェノッロサの洋画攻撃などあって、工部美術学校は、82年12月、閉校に追い込まれてしまう。一方、山師フェノッロサ(30歳)の日本画追従に乗せられた龍池会は、83年6月、パリで展覧会を開き、日本画150点を展示するが、失敗。これに懲りず、翌84年5月にも、開催。200点を越える出品にもかかわらず、1点も売れない。

しかし、内務卿伊藤(42歳)の方針は、急務の条約改正のため、もとより国粋主義などではなく、ドイツ式の洋風近代化だった。長州五傑以来の同僚、外務卿井上馨(47歳)に命じて、83年11月には、鹿鳴館を作らせ、芸妓たちにダンスを踊らせて、外交官たちを接待。また、日比谷にドイツ風の官庁街を計画。これに呼応して、東大哲学教授外山(35歳)も、漢字を廃止してローマ字化することを検討。85年12月、太政官制が内閣制に切り替わり、伊藤(44歳)が初代総理大臣になると、井上(49歳)を外務大臣とし、その腹心で、帰国した駐英公使森有礼(38歳)を文部大臣に据える一方、文部省をぎゅうじっていた国粋主義の九鬼(33歳)をワシントンに左遷。

とはいえ、伊藤の洋化政策に反発する国粋主義者たちに担がれたフェノッロサ(31歳)の権勢もなかなかで、ろくに哲学も教えられないのに、84年、東大教授の契約を再度更新。年俸6000円(6000万円相当)をもらいながら、講義をさぼって美術品の買い集めに奔走。同年7月には、九鬼(32歳)や岡倉(21歳)、ビゲロウ(34歳)とともに、法隆寺に押しかけ、政府調査と称して、秘仏の夢殿救世観音の封を解いてしまうなど、やりたい放題。また、日本の美術品千点以上をボストンの収集家ウェルドに売っ払い、28万ドル(56億円相当!)を稼ぐ。

85年9月、東京大学の理学部から工芸学部を分離し、翌86年3月、これに工部大学校を統合して、帝国大学と改称。慶応出ながらオーストリア外交官(つまりドイツ派)を務めた渡辺洪基(1848~1901、38歳)が総長となる。また、86年9月、総理大臣伊藤(45歳)は、東京美術学校設立のための調査としてフェノッロサ(32歳)と岡倉天心(24歳)を欧米に送り出す。が、じつは、その留守中に帝大哲学教授外山(38歳)に諮問し、美術学校の構想を練らせる。外山は、これを日本画と洋画の並立とする。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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