/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/
松代真田家の下士、佐久間象山(1811~64、31歳)は、江戸で佐藤一斎に学び、儒学者となったが、中国のアヘン戦争(1840~42)で、幕府から真田家が海防係を命じられたため、その当主顧問に抜擢され、急遽、蘭学を修得。48年には、大砲を鋳造。51年には、江戸で五月塾を開き、勝海舟(1823~99、28歳、下級幕臣)や吉田松陰(1830~59、21歳、長州毛利家中)、坂本龍馬(1836~脱藩61~67、土佐山内家中)らを教えた。
51年、ジョン万次郎(1827~98、24歳)ら三人の土佐漁師が帰国。十年前の41年、五人は漁労中に難破し、米国捕鯨船に救助され、ハワイに。ひとり万次郎は、船長の養子となって、さらに本土に渡り、マサチューセッツの漁師町のバートレット私塾で数学や航海術を学んで、みずからも捕鯨船員になった。しかし、帰国の念やまず、ゴールドラッシュのカリフォルニアで金を採掘して資金を得、ハワイの同僚二人とともに上海行き商船から小舟で琉球に。同地を管理する薩摩の島津斉彬(42歳)を経て、土佐に戻り、藩校教授に取り立てられ、後藤象二郎や岩崎弥太郎などを教える。
蘭学から英学へ
53年、黒船来航。昌高(72歳)は、すでに隠居の身ながら、当然に開国論を説き、同家砲術顧問の象山(42歳)に蘭学塾を開くことを打診。ところが、翌54年、松陰(24歳)が黒船密航に失敗し、師の象山も連座させられ、松代に蟄居。代わって、薩摩蘭方医の養子、寺島宗則(1832~93、23歳)に委ねられた。また、55年、幕府も、艦船購入とともにオランダ海軍の指導を仰ぎ、長崎に海軍伝習所を開設。勝海舟(22歳)、佐野常民(1823~1902、22歳、佐賀鍋島家中)、五代友厚(1836~85、19歳、薩摩島津家中)、榎本武揚(1836~1908、19歳、下級幕臣)ら、述べ128名が教育を受けた。一方、中津奥平江戸屋敷の蘭学塾の寺島(25歳)は、島津家に侍医を命じられ、57年、薩摩に連れ帰えられてしまう。さらに人を探したところ、中津奥平家の下士、福沢諭吉(1835~1901、23歳)が自力で長崎に行って蘭学を学び、いま、大阪の緒方洪庵の適塾にいる、とのこと。58年、さっそくこれを呼び寄せ、江戸の蘭学塾を任せた。
黒船は、蘭語から英語に切り換える必要を生じさせた。この移行過程で蘭語と英語の両方ができるオランダ系米国人を語学教師などとして雇い入れるようになる。フルベッキ(1830~来日59~98、29歳)は、もともとはエンジニアだったが、大病の後、蘭改革派教会宣教師となり、59年に来日。しかし、いまだ日本ではキリスト教が禁止されていたので、長崎の私塾で英語を教え、副島種臣(1828~1905、佐賀鍋島家中)、大隈重信(1838~1922、佐賀鍋島家中)らを感化する。また、フルベッキは、その後、数百名もの日本人を各藩から蘭改革派教会ニュージャージー州ラトガース大学に留学生として送り込んだ。
歴史
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2020.02.19
2020.02.29
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。