/応仁の乱と同じく、ヨーロッパの三十年戦争も、ややこしい。しかし、そのわかりにくさの元凶は、近代の領邦国家の感覚で理解しようとしているから。むしろ近代の領邦国家ができる課程でこそ、この戦争は起きた。同様に、われわれの未来も、現代の構図で理解しようとしたのでは、理解できないだろう。/
宗教改革の始まり
「フランスなんて、百年戦争にかろうじて勝っただけの小国だったじゃないですか。いつから、そんな大国になったんですか?」「きっかけは、宗教改革だろうな」「ドイツのルターの?」「そう。ライプツィッヒ市の北のヴィッテンベルク街でルターが一五一七年に教会のやり方に疑問を呈すると、二一年、領主のザクセン選帝「賢人」公フリードリッヒ三世がこれを匿い、二四年にはドイツ中央、フルダ河畔のヘッセン方伯「寛大」フィリップ一世が公然とルター派を支持、プロテスタント(抗議派)となった。おまけに、ブランデンブルク・ツォレルン辺境伯家出身のチュートン騎士団長も、二五年、騎士団ごとルター派に改宗させ、私領のプロイセン公国を創ってしまう」「おいおい、ツォレルン辺境伯家って、アウグスブルクのフッガー家やフィレンツェのメディチ家とつるんで、免罪符を売った側だろ?」「変わり身が早い、どさくさに紛れる、結果はしっかり手にする。悪い人って、そういうものですよ」
「このルター派とはまったく別に、教皇に離婚を認めてもらえないからって、三一年、イングランド国王ヘンリー八世が教皇権を否定して、イングランド国教会を興す」「教会関係者しかわからないラテン語として封印されてきた『聖書』を自国語で読んだら、どこにも「教皇」なんていう言葉は書いてなかったんだから、そうなるのは当然の結果だな」「でも、これまでずっとそれがバレなかったんですから、やっぱり神さまの奇蹟じゃないんですかねぇ」「……」
「とはいえ、黙って引き下がるカトリックでもない。カトリック教会では三四年にイエズス会ができる。一方、三六年にはカルヴァンが出て来て、ジュネーヴ市に拠点を築き、対立は激化。四六年、ヘッセン方伯「寛大」フィリップ一世や、ザクセン選帝「賢明」公フリードリッヒ三世の甥のヨハンフリードリヒ「豪胆」公が、皇帝カール五世に対してシュマルカルデン戦争を起こす」「教皇はどうしていたんだ?」「ファルネーゼ家パウルス三世は、もともと皇帝カール五世と仲が悪かったんだよ。就任前の二七年には、ローマ略奪を喰らっていたし、自分の息子を教皇領のパロマ公にしていたのに、四七年に暗殺されて、街も取られた」「そういえば、ヴァチカン大聖堂の改修のための石の調達で、カラカラ帝浴場跡からファルネーゼ・ヘラクレス像が見つかったのって、一五四六年だったよな」「殺された息子のように、大切に思えたでしょうね」
歴史
2017.07.15
2017.08.07
2017.08.12
2017.10.04
2017.10.23
2018.01.28
2018.02.17
2018.07.10
2018.07.17
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。