/『武家諸法度』は、幕府への奉公と、武家の身分安堵との再契約であり、将軍の代替わりごとに発布された。その中で、賄賂を禁じる新井白石の「正徳令」は、わずか6年で廃止され、事実上、賄賂を黙認することとなる。というのも、武家は、弓馬の道でも、儒教道徳でもなく、『武家諸法度』に合うよう、体面格式を維持することこそが求められたからである。/
はじめに:武家諸法度の成立
一口に江戸時代の武士と言っても、将軍から浪人まで、また、江戸市中から地方村落まで、その生活形態はあまりに多種多様であり、その注目するところ次第で、なんとでも言えてしまう恣意的な議論になりかねない。そこで、本考では、江戸時代の「武士」の公式定義である『武家諸法度』に基づいて、その内容と影響から江戸時代の武士というものをあり方を検討する。
『武家諸法度』に先行し、1595年旧暦8月、甥の二代関白秀次謀反嫌疑に際し、秀吉は五大老連署で『御掟五箇条』を武士一般に発布させた。すなわち、1、勝手婚姻の禁止、2、契約誓詞の禁止、3、喧嘩我慢の有理、4、讒言の徹底調査、5,乗物身分の規定、である。しかし、98年、秀吉が亡くなると、家康が縁戚外交を始め、すぐ破られることになる。
そして、関ヶ原の戦いの後、1611年旧暦4月、後水尾天皇即位の日、家康は「公儀の御為」として、京都に参集した諸大名22名に『誓詞』三箇条に署名させる。すなわち、1、鎌倉以来の法令のように江戸幕府の修正を守れ、2、法令上意に背く者を隠すな、3、反逆殺害人を抱えるな。これも「武家諸法度」に先行するが、「武家諸法度」より根本的な法源を示し、これに従わせるものである。
この背景には、戦国時代の分国法の問題がある。秀吉は太閤検地において度量衡の統一を図ったが、家康はこの『誓詞』において法体系の統一を試みる。戦国大名たちが現地の勢力事情に応じてかってに改変してしまっていた領内既得権を家康はいったんすべて解消し、かつての鎌倉室町の幕府の公式の法体系に戻すとともに、江戸幕府のみがその修正立法権を独占することを諸大名に認めさせた。その上で、法令や幕府に逆らう者を隠したり、抱えたりすることを禁じた。
したがって、この『誓詞』は、江戸幕府が鎌倉室町幕府の権威の正統継承者であり、治安維持のための全国統一的修正立法機関であることを諸大名に認めさせる意味を持つ。しかしながら、この時期、名目上はいまだ豊臣政権下にあって、この『誓詞』はかならずしも諸大名に江戸幕府への服従を強いるものではない。文面にある「上意」も、天皇家や豊臣家とも読め、江戸幕府は、あくまでその「上意」の代執行者であるかのような体裁を取っている。
そして、大坂落城の二月後、1615年旧暦七月、諸大名が伏見城に集められ、二代秀忠によって最初の『武家諸法度』、「元和令」全13条が発せられる。1、文武弓馬の道、もっぱらあい嗜むべきこと。2、群飲佚遊を制すべきこと。3、法度に背く輩を国々に隠し置くべからざること。4、国々の大名小名ならびに諸給人は、それぞれ士卒を相构し、反逆をなし人を殺害する者あらば速やかに追い出すべきこと。5、今より以後、国人の外、他国の人を雑置すべからざること。6、諸国の居城、修補なすといえどもかならず言上すべく、いわんや新儀の構営は、かたく停止せらるること。7、隣国においてて新儀を企て、徒党を結ぶ者これ有らば、早く言上いたすべきなり。8、私に婚姻を結ぶべからざること。9、諸大名参観作法のこと。10、衣装の品、混雑すべからざること。11、雑人ほしいままに乗輿すべからざること。12、諸国諸侍、倹約を用いらるべきこと。13、国主は政務の器用を選ぶべきこと。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。