/『武家諸法度』は、幕府への奉公と、武家の身分安堵との再契約であり、将軍の代替わりごとに発布された。その中で、賄賂を禁じる新井白石の「正徳令」は、わずか6年で廃止され、事実上、賄賂を黙認することとなる。というのも、武家は、弓馬の道でも、儒教道徳でもなく、『武家諸法度』に合うよう、体面格式を維持することこそが求められたからである。/
これらの条項は、大坂の両陣の後、わずか一世代二〇年で、武家が戦乱の中で武功を競い合う気風を喪失し、儀礼などで豪奢の虚栄を張り合うようになってしまっていた現実を示している。この後、38年にキリシタンを名目とする「島原の乱」が起きるが、上述のような庶民管理の大名家からの寺社への移行によって、大名家も雑兵を集められず、実際に参戦したのは、両軍ともに浪人たちであり、それも兵糧攻めと持久戦という、はなはだ武家らしからぬ戦い方だった。(キリシタン農民・漁民となっていた多くは、キリシタン大名だった旧小西家や旧有馬家の武士残党で、地元の庶民ではない。)
さらに、83年の五代綱吉の「天和令」に至ると、第1条そのものが書き換えられてしまう。すなわち、1615年の「元和令」では、「文武弓馬の道、もっぱらあい嗜むべきこと」となっていたのが、「天和令」では、「文武忠孝に励み、礼儀を正すべきこと」に変わっている。そして、弓馬については、「人馬・兵具など、分限に応じ、あい嗜むべきこと」と別条項になった。逆に言えば、分限によっては、武士であっても、弓馬は嗜まなくてもよい、とも取れる。つまり、弓馬などよりも、朱子学的な忠孝礼儀こそが武士一般の本質とされるようになったのである。
すでに二本差は、武家の記号的なシンボルと化し、月代は剃っても、甲冑を身につけることはなかった。それどころか、皇室から官位を得て、公家の普段着である狩衣を礼服とするに至り、形ばかりの小さ刀を差すのみ。つまり、実務実行組織としての武家は、実質的には一時的に古い公家システムに吸収されてしまった。
赤穂事件と正徳令・享保令:武家の存在意義
しかし、「天和令」に「礼儀を正す」とあっても、なにが礼儀か、公家側でも具体的な明文規定が無く、まして新参公家成りの武家に、歴史ある有職故実がわかるわけもなく、武家になった最初の公家である源氏末裔の「高家」に個別に問うほかは無い。そして、この矛盾が露呈したのが、1701年の「城内刃傷事件」である。狩衣を着ながら、小さ刀で切りつける、というのは、公家成り武家のありさまとして、まさに象徴的だった。(時代劇に見る烏帽子長袴は官位からして誤り。)
くわえて翌年末(現代歴では1703年)、「赤穂浪士討入事件」が起きる。これは、幕府体制の根幹の曖昧さを突くものでもあった。すなわち、『武家諸法度』を遵守することにおいて、すべての武士は、浪人まで含め、将軍と直接の身分保障を得ているのだが、だれを武家に取り立てるのかは、それぞれの大名家の裁量だった。このため、幕府の支配が大名家に及ぶのは当然ながら、その陪臣は将軍に対して忠孝に励むべきか、それとも、あくまで取り立ててくれた大名家に対して忠孝に励むべきか、はっきりしていなかった。
歴史
2013.05.07
2017.07.15
2017.08.07
2017.08.12
2017.10.04
2017.10.23
2018.01.28
2018.02.17
2018.07.10
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。