/『武家諸法度』は、幕府への奉公と、武家の身分安堵との再契約であり、将軍の代替わりごとに発布された。その中で、賄賂を禁じる新井白石の「正徳令」は、わずか6年で廃止され、事実上、賄賂を黙認することとなる。というのも、武家は、弓馬の道でも、儒教道徳でもなく、『武家諸法度』に合うよう、体面格式を維持することこそが求められたからである。/
まして、大名家が将軍に取り潰されると、遺臣にとって将軍は主家の仇(あだ)となり、この二つが両立しえない。将軍に逆らう者は、『武家諸法度』からして武家ではない、とすることもできたが、結局、あくまで武家ながら不届きとして、武家としての将軍の直接処分、切腹となった。このことは、各大名家の陪臣はもちろん、浪人まで、すべての武家は将軍と個別直接の忠孝奉公-身分安堵の関係にあることを示し、ここにおいてようやく、武家は、中世的な一族郎党の武装集団の公家成りから、ようやく幕府体制下での社会身分として確立されることになる。
この新体制確立に大きな貢献をしたのが、1710年の六代家宣の「正徳令」を起草した朱子学者、新井白石である。最初の「元和令」以降、消されていた「群飲佚遊の禁」を復活させるとともに、役人についてはとくに偏頗贔屓を遠ざけ、収賄を禁じる二条項を書き加えている。これは、武家統治の正当性を、朱子学の中正、庶民の模範たることに求めたゆえである。すなわち、庶民はそれぞれ地上の五気の性に振り回されて乱れているが、役人は「敬」において自らの五気の性を陰陽の天の理に合わせ、この中正を示し、庶民を改めさせ、最善の状態を保つこと、明明徳・新民・止至善に、その存在意義がある、とする。
つまり、ここで確立された「武家」は、武家と言っても、すでに「弓馬の道」を失っており、番方ですらない役人としての存在だった。ここにおいて、武家は、公家とは別様ながら、公家に似た独自の有職故実を高度に発展させていくことになる。これを支えたのが、朱子学の「名分論」である。江戸時代前期までは、それぞれの思想家が好き勝手に武士のありようを論じえたが、白石以降になると、武士の当為は、朱子学に基づき、統治体系としての整合性、歴史経緯としての連続性が、共時的、通時的に問われるようになる。
この将軍から浪人まで階層化された整合性や連続性の絶対化は、武士に保守的硬直をもたらした。いくら『武家諸法度』に倹約が唱われても、同じ諸法度の分限規定が、むしろ逆に、倹約を許さない、ある意味で贅沢の義務へと転化した。中正を保つ、ということは、倹約とは両立しえないのだ。○○であるにもかかわらず××してしまった、××しなかった、つまり、分限相応の体面を保てなかった場合、閉門(みせしめ)、蟄居(自宅禁固)、召放(解雇)、切腹(死刑)などの罰が科せられ、一族まで武家の身分を失った。
歴史
2013.05.07
2017.07.15
2017.08.07
2017.08.12
2017.10.04
2017.10.23
2018.01.28
2018.02.17
2018.07.10
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。