/『武家諸法度』は、幕府への奉公と、武家の身分安堵との再契約であり、将軍の代替わりごとに発布された。その中で、賄賂を禁じる新井白石の「正徳令」は、わずか6年で廃止され、事実上、賄賂を黙認することとなる。というのも、武家は、弓馬の道でも、儒教道徳でもなく、『武家諸法度』に合うよう、体面格式を維持することこそが求められたからである。/
関ヶ原の戦い、大坂両陣の後、敗残浪人や劣勢外様、外国列強のうごめく中にあって、この最初の『武家諸法度』は、反乱予防の治安維持に重点が置かれている。しかし、その中で、第一条に見られるように、武士の鍛錬規律が新たに唱われるようになった。この条項は、11年誓詞および15年諸法度の中でも、法令としてあきらかに異質であり、武家の心得とも言うべきものとなっている。
寛永令から天和令へ:武道無き公家成り武士
35年の三代家光の「寛永令」以後、将軍の代替わりごとに『武家諸法度』は発布し直された。つまり、『武家諸法度』は、幕府政体の憲法、永続的な法体系などではなく、あくまで将軍個人の就任教書であり、諸大名家、旗本御家人、および武士一般が、これに従うことにおいて武士の身分を新将軍に改めて安堵保証される、つまり、将軍とともに、武士全員の身分更新、再契約だった。
「寛永令」全19条では、第2条で「大名小名、在江戸の交替相定むる所なり。毎歳夏四月参勤致すべし」として、参勤交代が明確化され、これに付随し、第15条「道路・駅馬・舟梁など、断絶無く、往還之停滞を致さしむべからざること」、第16条「私の関所、新法の津留、制禁のこと。」として交通の便宜を図る一方、第4条「江戸並びに何国において、たとえ何篇のこと、これ有るといえども、在国の輩はその所を守り、下知あい待つべきこと」第17条「五百石以上の船、停止のこと」として、軍事的な動員を禁じている。
この「寛永令」を実際に起草したのは、上野に孔子廟を建てた朱子学者、林羅山にほかならない。しかし、「寛永令」は、「元和令」第1条の「文武弓馬の道、もっぱらあい嗜むべきこと」を引き継いでおり、特段に朱子学らしさが加わったわけではない。強いて言えば、「諸国散在寺社領古より今に至り附け来る所は向後取り放つべからざること」として、寺社の存続を述べており、向後、大名家による土地支配と並行して、幕府は武家以外の庶民を大名家から切り離し、檀家制度や寺請証文によって寺社の管轄に移行させる意図を示している。実際、戦乱では、足軽などの庶民の雑兵の大量徴用こそが主戦力となるのであり、武家の移動禁止とともに、庶民の寺社管轄は、大名家を武家のみの小さな地方行政体に縮小して、現実的な戦闘力を削ぐことになる。
「寛永令」の倫理的特徴は、むしろ質素倹約にある。参勤交代からして、第2条で「従者の員数、近来、はなはだ多し。かつは国郡の費、かつは人民の労なり。向後、その対応をもって、これを減少すべし」と付言されている。また、第9条「音信・贈答・嫁娶り儀式、あるいは饗応、あるいは家宅営作等、当時はなはだ華麗の至り。自今以後簡略たるべし。そのほか、万事倹約を用うるべきこと」、第10条「衣装の品、混乱すべからず。白綾は公卿以上、白小袖は諸大夫以上、これを聴す。紫袷・紫裡・練・無紋の小袖は、みだりにこれを着るべからず。諸家中に至り、郎従・諸卒の綺羅錦繍の飾服は、古法に非ず、制禁せしむること」、第11条「乗輿は一門の歴々・国主・城主・一万石以上ならびに国大名の息、城主および侍従以上の嫡子、あるいは五〇歳以上、あるいは医・陰の両道、病人、これを免じ、そのほか濫吹を禁ず。ただし、免許の輩は各別なり。諸家中に至りては、その国において、その人を撰び、これを載すべし。公卿・門跡・諸出世の衆は制外のこと。」と、儀礼、住居、衣服、駕籠について、当世の華美な流行を批判し、質素倹約に努めるよう釘を刺している。
歴史
2013.05.07
2017.07.15
2017.08.07
2017.08.12
2017.10.04
2017.10.23
2018.01.28
2018.02.17
2018.07.10
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。