/お盆は、もとは儒教の、死んだ先祖の罪業の宥しを請う「中元」の行事。インドの輪廻の死生観を持ち合わせていなかった中国や日本の葬式仏教が、この中元信仰に飛びついた。しかし、儒教も仏教も無く、死者を思い、自分の人生の来し方行く末を考えるのに、夏半ばのお盆は大きな意味がある。/
葬式仏教はインド仏教とは別物
毎年8月13日から16日の4日間が「お盆」。都会にいるとあまり実感がないかもしれないが、地方ではあちこちの初盆の家のお参りに回ったり、寺で盂蘭盆会(施餓鬼会)があったりで、けっこう忙しい。
そんな折に、お盆の由来について、お話をうかがうこともあるだろう。が、長年の間にいろいろな話がくっついてしまい、あなたの先祖は地獄に堕ちて逆さに吊るされてしまっている、それを救うためには大金のお布施を納めないといけない、というような霊感商法まがいの脅し文句に化けることさえも。
逆さ吊りの話は、盂蘭盆の元のインド・サンスクリット語「ウッランバーナ」の意味がよくわからず、「ウドゥランブ」(逆さ吊り)のことだ、と決めつけたところから、もっともらしい仏弟子の母親供養の法話まででっち上げられ、布教に利用された。しかし、今日、言語学的には、イラン・アヴェスター語の「ウルヴァン」(霊魂)のことだとみなされている。先祖に限らず、諸霊を供養する、という意味で、盂蘭盆会に施餓鬼会がくっついてしまうのも当然。
だが、本来のインド仏教では、先祖供養をする理由が無い。仏教はもともとインドの伝統的な死生観、輪廻からの解脱を目指すところから始まっており、その霊魂は、まったく別の前世から輪廻しているのであって、もとより現世の先祖とはつながりを持っておらず、供養するまでもなく、死んで解脱できていなければ、とっとと生まれ直してしまい、この世のどこかであいかわらず四苦八苦しているはず。
地獄、なんていうのからして、現世で永遠に輪廻してしまうインドのものではなく、むしろイランの死生観。一方、中国では、道教的な死生観に基づき、儒教の連中が冠婚葬祭を取り仕切っていた。ところが、秦漢時代(前247~後220)に儒学者たちが新しい中央集権体制を批判したため、焚書坑儒で徹底的に弾圧された。ちょうどこのころ、代わって仏教が中国に入り込み、イランなどの周辺諸国の雑多な死生観もいっしょにやってきて、ごたまぜの中国仏教ができた。このとき、それまで儒教がやっていた儀礼も僧侶が取り仕切るようになり、現代日本につながる葬式仏教に。
儒教と宥罪
夏、8月15日に先祖供養をするのは、もともとは儒教の行事。冬至(昼がもっとも短い日)と春分(昼と夜が同じ日)の真ん中の日が、旧暦の「立春」。この直後の新月(月の出ない晩)が一年の始まりの「元旦」。そして、最初の満月、1月15日が「上元」「元宵節」。この日は、古代の伝説の聖人天帝、堯(ぎょう)の誕生日とされ、賜福の日。ここまでが「春節」。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。