/『武家諸法度』は、幕府への奉公と、武家の身分安堵との再契約であり、将軍の代替わりごとに発布された。その中で、賄賂を禁じる新井白石の「正徳令」は、わずか6年で廃止され、事実上、賄賂を黙認することとなる。というのも、武家は、弓馬の道でも、儒教道徳でもなく、『武家諸法度』に合うよう、体面格式を維持することこそが求められたからである。/
しかし、武家の生活を、現代のサラリーマンの勤務形態と同じようなものと考えていると、根本を見誤る。たとえば、百石取りと言っても、それは本領安堵ということのみで、実際にその知行地から百石の収穫収入があるかどうかわからない。また、あれこれの奉公は、基本的に自前で、主家から経費は出ない。かつては、事業を成し遂げた後に報賞が出たが、江戸時代になってからは、主家にもそのような余裕は無くなった。つまり、武家は、それぞれに独立自営業者であり、建前としては、先に本領安堵という恩恵を受けているのだから、後は無給無償で奉公しろ、という仕組みになっている。
この立場をもっとも象徴しているのが、将軍家や大名家の家臣の底辺に位置する「小普請組」である。本来は、戦闘時に雑兵として働くほか、土木工事や修繕修理、植木雑草の手入れまで、人手が必要なときに呼び出されて自分の使用人たちとともに奉公する役目だったのだが、江戸時代になってからは、実際は、番方でも役方でもない無役無用の家臣たちのことを意味し、中期以降、小普請金の金納が義務づけられた。つまり、武家としての身分保証費として、およそ百俵取り(40両相当)で年1両を主家に上納するのだ。
ただし、浪人と違って、主家に仕える武家であれば、家老から小普請組まで、大小の差はあれ、主家から住居があてがわれた。つまり、家賃がかからない。その一方、家の格式に応じて、自前で使用人たちを抱え、住居内に住まわせていた。ちょっと他家を訪れるにも、格式上、相応の先触れを送ることが求められたからである。これらの使用人には、ともに戦う足軽武士の「中間(ちゅうげん)」や「門番」のような者から、武士ではない荷駄持ち、留守家族の世話をするじいや、そしてこれらの家族などが含まれる。しかし、これらも、実際の戦闘の機会が無くなった後は家には置かず、必要なときだけ対面を保てるように口入れ屋にお願いするようになる。
大名家が財政に苦しんだように、各武家においても、とにかく資金調達が最大の問題だった。かと言って、商人のような物品売買をすることは武家として許されていなかった。ここにおいて、さまざまな「賄賂」は、むしろ武家にとって重要な収入源のひとつとなった。「収賄」といっても、多くの場合、もともと自前で事業出費をしなければならない以上、業者から賄賂を得て、公共予算を与え、私服を肥やす、というのとは根本的に違う。各業者から競って賄賂を出させ、その最大のところに事業を委託する。これは、いわば値引ないし競争入札のようなものである。
歴史
2013.05.07
2017.07.15
2017.08.07
2017.08.12
2017.10.04
2017.10.23
2018.01.28
2018.02.17
2018.07.10
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。