/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/
『純粋理性批判』(1781,87)を書いたカント(1724~1804)もまた、《主知主義のアポリア》に苦しんだ。それゆえ、続いて『実践理性批判』(1788)、『判断力批判』(1790)を著すが、これらもまた、彼自身の行動力欠如を反映して、時代遅れの抽象的な美徳規範形成論の域を出ることはなかった。しかし、革命時代の若きフィヒテ(1762~1814)は、『知識学』(1794)において、人はただそれであると認識するのではなく、それにすると実践するところにこそ、自我がある、という「事行(tathandlung)」のアイディアによって、この美徳規範の知性牢獄からの脱出路を開いた。
フランス革命の瓦解を体験した文学者シラー(1759~1805)もまた、カントを踏まえつつ、『人間の美的教育について』(1795)において、趣味の受動的主観性に反論する。これは、27の書簡からなり、ルソー同様、理性と感性の対立を軸とし、利己(合理)的な上流階級と衝動(感情)的な下流階級の分断を問題にする。これらに対し、美徳は経験を超える理想であり、これを求める芸術、自由な遊びこそが、現実に対する精神の自己主張として、合理と感情を融合統一する、とされる。シェリング(1775~1854)は、このアイディアを世界観に応用し、世界そのものが物質性と精神性の両極を比率的に含む同一体であるとし、芸術を人間の精神的生産として位置づける。
江戸時代の美徳と芸道
徳川家康は、若き朱子学者、林羅山(1583~1657)を側近とし、幕藩体制を整えた。羅山に学んだ家光は、上野忍岡に私塾を開かせ、孔子廟を作らせた。そして、五代綱吉が1690年になってこれを湯島に移し、孔子崇拝の儒教を国教に位置づけた。しかし、これは、あくまで孔子崇拝の儒教であって、朱子学ではない。徳川家は、旗本だけでも5000家、それ以下の御家人まで入れると二万家を超え、彼らに朱子学を教育する機関など持っておらず、まして、独立自営が原則の他の大名家にまで朱子学を押しつける権限はなかった。
江戸時代の実情からすれば、関ヶ原の後、武士は過剰で、むしろ治安を乱す危険因子であり、それゆえ、なんらかの因縁をつけてでも、ひたすら大名家を削減した。このため、身分は武士ながら仕官先の無い浪人、およそ50万人が市中に溢れ出ていた。その多くは貧困にあえいだが、中は、武芸を持って用心棒、さらには武芸師範として世を渡る者とともに、寺子屋などで庶民教育に当たる者もいて、彼らこそむしろ朱子学を信奉した。
解説
2024.03.29
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2024.08.26
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。