/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/
たとえば、本邦最初のものとされるスサノオの和歌、「八雲立つ出雲八重垣、妻籠(つまごみ)に八重垣作る、その八重垣を」(『古事記』)も、まず枕詞(まくらことば)の「八雲立つ」が出雲の神の短縮され定型賛辞であり、また、続く「八重垣」で、神に守られた地としての神徳を示す。このうえで、自分もまた出雲の神に倣って八重垣で家庭を守ることを誓い、最後に、出雲の神に、その家庭を守り賜え、との願いごとが奏上される。
その後の和歌も同様に、この冒頭賛辞の五七、自己宣誓の五七があって、これに願いごとの七言が付くのが、祝詞から発展した最小元型だっただろう。たとえば、倭姫王(やまとひめみこ)が夫の天智天皇の危篤に「天の原ふりさけ見れば、大君の御いのちは長く、天足らしたり」(万葉2-147)と詠むが、これは願掛けの姿を残している。
ただし、もとより本邦では、八百万(やおよろず)の自然の随神(かんながら)を「道」とした。それゆえ、願いごとを奏上するにしても、その神聖なる自然神の御心のままに、というのが基本であって、それをねじ曲げるような願いは傲慢禁忌とされる。スサノオの歌でも、出雲の神に自分の家庭を守れと命じるような僭越な願いごとの動詞は省かれ、ただ「八重垣を」のみで、出雲の神らしい神徳御心を期待するに留められている。
このために、和歌では、そもそも最初から自分の本意にかなう自然神徳をうまく呼び出すことに主眼が置かれ、その賛美のみに終始することになる。つまり、いかに詠うか、以前に、なにを詠うか、いや、わざわざなにかを詠うということに、すでにメッセージがある。それは、その時その場で詠唱されるパフォーマンス芸術であり、文学ではなかった。文字に残す場合も、詠唱の時と場を示す詞書(ことばがき)を添え、これとの対でのみ、意味がわかった。
自分の思いを自然神徳の賛美に託すにも、また、和歌に詠われている対象、自然神徳ではなく、そこに籠められた詠者のメッセージの意味を理解するにも、繊細な感性を要した。さらに、文化蓄積とともに、かつて詠われた歌の引用や比較で、それはさらに複雑高度な意味を成した。それゆえ、歌道は盛んに学ばれ、その大家とされる師範や流派も表れた。ただし、歌がメッセージである以上、表現の巧拙よりも、だれが詠ったか、に重点があり、歌の上手ゆえに出世するなどということは希有だった。そもそも、政治は、中国から輸入された律令制を基幹としており、漢学を主軸として公式の法令が作られていた。それゆえ、「和魂漢才」として、自然随神と体系論理、感性と理性の両方を併せ持つことが貴族には求められた。
解説
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。