/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/
もとより朱子学は、宋代の祠禄(しろく、無任所)士大夫だった朱子によるもので、陰陽の天理が現世の五気で乱されている、と考え、士大夫は虚心の中整で天理を体現し、一般庶民の範となることにこそ存在意義がある、とする。そして、格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の「八条目」の順で学び、明明徳・新民・止至善の「三綱領」を守ることで、だれもが天下国家を論じるにたる君子になれる、と論じていた。
しかし、同時代のヨーロッパの「万人闘争」と同様、江戸は、窮乏浪人だけでなく、全国から寄せ集められた大名家家臣、地方から移り住んできた有象無象で、混乱を極めた。とくに若い旗本とその取り巻きの「旗本奴」は、奇矯な伊達姿で武家の権威をかさに無頼無法を繰り返し、庶民の人望を集める口入れ屋(上京者や浪人の仕事斡旋業者)などが、「町奴」としてこれと抗争を繰り返した。くわえて、武家相互の対立や仇討も各地で頻発し、赤穂事件(1701~03)のように、杓子定規の幕府裁定を認めず、勝手仇討に出ることもあった。
幕府はこれらの鎮圧に手を焼き、重刑もって臨んでいたが容易には収まらなかった。しかし、十八世紀になって、三二歳で将軍となった朱子学嫌いの八代吉宗(1684~1751)が、庶民の声を聞く目安箱を設置し、大岡忠相を町奉行に登用するなど、大胆な幕政改革、経済振興を行ったことで、ようやく庶民にも人気を得て、幕藩体制は治安を確立する。
高度な美術工芸品も、幕府や大名家の管理の下、各地で数多く作られるようになる。関ヶ原以降、すでに幕府や大名家は、家臣に恩賞として新たに割り当てうる領地は無く、これを貴重な茶器名品などに変えていた。武家の方も、国替えなどの可能性があるため、動産の方を好んだ。幕府は封建(領地委託)制に応じて米本位制を採っていたが、米は豊作凶作で大きく価値変動するために、商家や豪農などでも工芸品による蓄財が一般化した。
芸能では、謡い語りに人形芝居が付いた人形浄瑠璃が小屋がけとなり、1683年、公家に仕える浪人、近松門左衛門(1653~1725)が片手間に書いた仇討ものが大ヒットし、庶民を登場人物とする世話ものの心中話でも成功をおさめる。そのころ、歌舞伎は、雑多な物真似狂言踊りにすぎなかったが、この人形浄瑠璃をまねることで、一気に演劇性を高める。かくして、荒れた伊達者や仇討、心中などは、演劇の舞台の中に場を移し、巷間の話題をさらう。ここにおいて、テーマとなったのは、『菅原伝授』寺子屋に代表されるように、義理と人情の相剋だった。つまり、幕府が朱子学を推して言う君臣主従の忠義は、おうおうに家族や男女の庶民心情と対立し、悲劇の元凶とされた。
解説
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。