/ヴァンスが「ヒルビリー」という言葉をバッジにするとき、アパラチアン・ホワイトトラッシュと、愚昧だが純朴な自給自足の万能人、古き良きアメリカ人の理想という二つの相反イメージをあえて混同して利用している。/
ヴァンスが共和党副大統領候補となったことで、彼の自伝的著書『ヒルベリー・エレジー』が注目を集めている。が、ヒルビリーとはなにか。
雑な説明だと、アパラチア山脈の白人農民、としか書かれていない。たしかに、もともとの意味は、山の仲間、という程度のもので、南北戦争(1961~65)後(いわゆる西部劇時代)に現われ、19世紀末になって知られるようになった、比較的新しい言葉だ。
彼らの多くは、スコットランドやアイルランドからの移民。英国人は、エリザベス一世女王の後にイングランド王を兼任したスコットランド王ジェームズをそそのかし、「啓蒙」と称して北部ケルト(ゲール)人地域を侵略したため、彼らは米国に逃げ、それも英国人がすでに東部海岸地域を占拠していたため、不便な山地に入植せざるをえなかった。くわえて、アパラチア山脈は、英国とフランスの開拓の隙間の先住民地域で、入植は繰り返し壊滅的な破壊を被った。
1838年の先住民強制移住法とともに、開拓者、とくにアパラチアの困窮農民もミシシッピー以東に移った。が、低地は、自然災害と風土病(マラリア)だらけで、まともに暮らせるところではなく、こんな土地を与えられた先住民も怒って、移住者たちを襲った。このため、移住者たちはさらに西のオザーク大丘陵地(スプリングフィールドの南)の森に入植した。アパラチアに残った困窮農民は、南北戦争で北部側に加わることで独立州となったが、州は炭鉱企業に依存しており、労働者になっても搾取された。一方、オザークは、その後、オレゴン・トレイルやサンタフェ・トレイルなどが開かれ、また水も豊かで、狩猟や釣り、小規模の農業や放牧、採掘などで、自給自足の生活ができた。
20世紀になるころ、アパラチアン・ヒルビリーの多くが山を下りて北の自動車産業などに移ったものの、ここでも未熟練労働者として差別的な扱いを受け続けた。そして、20世紀後半からは、経済的な日本車に敗退して不況に見舞われ、「ラストベルト(鉄錆地帯)」と呼ばれるようになった。一方、オザーカン・ヒルビリーは、鉄道から自動車(ルート66)まではそこそこで、さらに西の「大草原」では、『大草原の小さな家』(1869~71)のような開拓が行われ、一時はカウボーイたちの大規模放牧で潤ったものの、飛行機時代になって、すっかり廃れ、『カーズ』(2006、フラッグスタッフ西のセリグマン町などがモデル)に出て来るような、見捨てられた町だらけ。
解説
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。