/今日、発売になった星野之宣『宗像教授世界編』第四巻に、この話が出ている。が、この2016年の記事は参考文献に挙げられていない。田久保晃『水田と前方後円墳』という2018年の本が、このネタを使っていて、そちらを挙げている。世に同じようなことを思いつく人はいくらでもいるので、べつにパクられたなどと騒ぐ気はないが、じつは古墳水田潅漑説には大きな欠陥がある。とりあえず再掲して追記しよう。/古墳は墓だ。だが、やたら天文にこだわっていた古代人にもかかわらず、その方位はばらばら。しかし、現地の様子をよく見ていくと、墓である以上に、防災水利施設としての必要性があったのではないか?/
大阪、それも南部に来れば、だれでもめんくらう。なんやぁこれ?と思うような、どでかい、こんもりとした山が住宅地の間に現れるからだ。東京で言えば、銀座全域くらい。それが三重の周濠で囲まれ、誰ひとり立ち入ることが許されない禁忌の場となっている。それも、はるか古代に日本人が人工的に作った、ということになると、とにかく圧倒されてしまう。
まあ、墓だ。しかし、いくら天皇だとはいえ、当時の身長160センチそこそこの人間を葬るのに、なんで500メートル近い墓を作ったのやら。単純な土山とはいえ、これを作るには、当時の技術でおよそ16年はかかっただろう、と言われている。しかし、5世紀、400年代には、その百年の間に、墳丘長200メートル以上の巨大な古墳を奈良大阪あたりだけで8つも作っている。中小規模のものまで数えたら、キリが無い。
いちばんめんくらうのは、このわけのわからないものが、ぐちゃぐちゃの方角を向いて、山辺(奈良盆地東南部)、佐紀(奈良盆地北部)、古市(藤井寺の近く)、百舌鳥(もず、堺駅の南)にひしめいている、ということ。地図上にいっぱい線を引いて、古代天文学が、とか、レイラインが、とか言っているシロウト古代史マニアもお手上げ。実際、古代日本人は、だれも見ない古墳の石室の中にまで星座図を正確に描き込んだような連中だ。いったいどうなっているのやら。
土石流対策としての古墳
一番古い前方後円墳とされる箸墓。大物主(大国主)を祀る三輪山の麓にある。3世紀後半に突如、280メートルもある巨大な人工の山が建設された。宮内庁は、第7代孝霊天皇の娘で、大物主の妻、迹迹日百襲(ににひももそ)姫の墓としているが、兄貴の第8代孝元天皇陵(奈良県橿原市石川町)よりはるかにでかい。それで、彼女こそ卑弥呼じゃないか、とか、いや、箸というのだから、土師(はじ、大国主系、埴輪業者)氏のだろう、とか、いろいろ言われている。
これは東北を向いている。しかし、地図だけ見ていてもわかるまい。現地に行くと、事情は氷解する。この古墳は、三輪山の北の谷筋、その土石流を迎え撃つように設置されている。もっとも現代の景観ではわかりにくい。当時、急激な人口爆発で大量の木材を燃料として消費し、この地域の山々は、山頂まで岩が露出するほどだっただろう。そもそも奈良中南部は、台風など、集中豪雨が長期に渡って繰り返し、また、山様も固い花崗岩ながら古く、劣化が進んでおり、大きな断層もある。とくにこの時代、古墳寒冷期として気候が極端に不安定で、実際、各地で大洪水を繰り返し引き起こしている。つまり、ちょっと雨が降り続いただけでも、でかい石がごろごろ麓に襲いかかり、村も田も滅ぼしてしまう、ということだ。殉葬を止めたのはもっと後の第11代崇神天皇になってからなので、迹迹日百襲姫が三輪山を神体とする大物主に嫁いだ、というのも、生きたまま土石流対策のための土塁古墳の人柱とされたのではないか、とさえ思える。
解説
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。