/今日、発売になった星野之宣『宗像教授世界編』第四巻に、この話が出ている。が、この2016年の記事は参考文献に挙げられていない。田久保晃『水田と前方後円墳』という2018年の本が、このネタを使っていて、そちらを挙げている。世に同じようなことを思いつく人はいくらでもいるので、べつにパクられたなどと騒ぐ気はないが、じつは古墳水田潅漑説には大きな欠陥がある。とりあえず再掲して追記しよう。/古墳は墓だ。だが、やたら天文にこだわっていた古代人にもかかわらず、その方位はばらばら。しかし、現地の様子をよく見ていくと、墓である以上に、防災水利施設としての必要性があったのではないか?/
再び灌漑のための古墳
これに前後して、5世紀初めには堺に上石津(百舌鳥耳原南陵)、第17代履中天皇陵も造られている。墳丘だけで365メートル、当時は二重壕で400メートルはあっただろう。しかし、ここは洪積台地上で、土石流の危険性などない。となると、佐紀盾列と同じく灌漑用溜池であったのだろう。この南に踞尾(つくお)村の谷があるが、ここに泥と水を供給していたのではないか。
ところが、どうも西側の神石村も干潟干拓で水を使おうとしたようで、その東北に、さらに巨大な、というより世界最大、486メートルの大仙、第16代仁徳天皇陵が造られる。これは、現在の大仙公園の池の谷から西に泥と水を供給することができる。ただし、干潟の干拓となると塩害があり、相当量の水を必要としたのではないか。この仁徳天皇陵は、崇神天皇によって造られた依網(よさみ)池(現阪南高校グラウンドあたり)の方向を向いており、ここからまっすぐに水を引いてくるつもりだったのだろう。
箸墓や応神天皇陵のようなアンチ土石流型古墳にかぎらず、佐紀盾列や百舌鳥の溜池泥水供給型の場合も、丸い側が上流で、方形側が下流になっていた。おそらく、丸い側で周囲の湧き水を集め、方形の直線部で水をひたひたとオーバーフローさせることで、石や砂利を沈殿させ、粒子の細かいシルトや粘土の溶けた泥水をうまく梳き取っていたからだろう。もしくは、もっと積極的に、葺き石の上へ大勢の人々が土を運び上げ続け、そこからガラガラと大量の土砂を周濠に落とすことであえて泥水をこねって作っていたのかもしれない。このシルトや粘土の溶けた泥水こそ、水が抜けない田を作るためには不可欠なのだ。
ところが、5世紀半ばも過ぎると、古市古墳群の方で、白鳥陵(軽里大塚、ヤマトタケル陵、190メートル)、第14代仲哀天皇陵(岡ミサンザイ、惠我長野西、242メートル)など、台地の尾根の突端に、丸い側を平野の方に突き出した逆向きのものがいくつも出てくる。これらは、むしろ石川中流から完成しつつあった大溝のオーバーフローを直線部で受け、丸い側で再びオーバーフローさせて、周囲に均一に水を分配する施設だったと思われる。このころにはすでに周辺の水田の底(地下30センチくらいのところ)に泥の保水層ができ、あとは水だけを供給すればよくなっていたのだろうか。
いずれにせよ、石川から住吉までの大運河計画は、簡単には行かなかった。台地を降りたところ、羽曳野平野を横切ろうにも、底に保水性が無かったからだ。それで、6世紀になっても、河内大塚山(335メートル、第21代雄略天皇陵?、河内松原の東)が造られる。これと連携して着工されたのが、狭山池と東除(ひがしよけ)川・西除(にしよけ)川。保水性のある台地の最後のところに1キロ、18メートルもの高さの堤防を築いて、狭山平野の両脇、平野より高く固い河岸段丘に水路を造り、大運河の水を補おうというもの。616年に、その狭山池の堤防が造られたことが確認されている。
解説
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。