/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/
美徳感性への社会的方策
十字軍の敗退、疫病の流行によって、教会の縛りが緩んだ15世紀、ルネサンスが起こった。おりしも、自滅したビザンティン(東ローマ)帝国から、古代ギリシア・ローマの文化が逆流入され、新プラトン主義的な二元論的世界観が流行。人間は善悪の間に揺れ動く中間的存在と考えられ、ボッティチェリは、古代ギリシア・ローマの人間くさい神々や英雄を寓意的に描き、新思想を目に見える形で人々に示した。
これに続く人文主義において、マキャヴェッリやシェイクスピア、エラスムスやトマス・モア、そして、モンテーニュやパスカルなどもまた、善悪のあわいに生きる人間性の実像を直視した。また、宗教改革によって、翻訳聖書とともに、イスラム教と同様、共同体や個人で信仰の「義(正しいあり方)」を問い直す動きも生まれた。しかし、新大陸やアフリカ・アジアでの略奪虐殺も横行し、ヨーロッパ内においても、新旧宗教戦争は実質的には絶対王制国家の利害対立に変貌した。つまり、教会支配が解けても、これに代わるに足る近代の美徳理念が無く、ボッブス(1588~1679)が「万人に対する万人の戦争」(『リヴァイアサン』1651)と呼んだ倫理混乱に陥った。
諸侯は、国際交流の必要性もあって、著名知識人を宮廷の文化サロンを開き、また、子女の家庭教師に当たらせ、人文学から人間の実像を学ばせるとともに、同様に混乱した古代ローマに生きたストア派の人々の生き方を重んじた。これに応じて、カトリック教会は、寄宿修道院学校で、静謐な信仰生活の中でラテン語などを教えた。また、それ以前の幼年には、子守女性がペロー(1628~1703)やボーモン夫人(1711~1780)の書いた教訓童話を用いて、善悪を説いた。
祖父の秘書だったロック(1632~1704)の薫陶を受けたシャフツベリ伯(第三代、1671~1713)は、人間の自然を闘争と見るホッブスや、これを合理的な社会契約で止揚しようとするロックも否定し、ロックの自然権やスピノザ(1632~77)の幾何学的倫理観から、個々人に社会的調和を求める美徳感性がある、と考えた。グラスゴー大学倫理学教授ハッチソン(1694~1746)もまた、外的五感の他に、内的な自意識、美意識、公意識、徳意識、等々も感性にあることを論じ、これらの天賦の感性によって、人間はおのずから善性を持つ、とした。
しかし、若きヒューム(1711~76)は、『人間本性論』(1739)を著し、より詳細に、知覚から観念の法則によって多様なイメージや印象、そして美徳の概念が形成されるしくみをあきらかにしたが、このような知的な美徳概念も、それを実践する動機たりえない、との結論に至り、あえて情熱(passion、感受反動)に存在意義を与えた。これは、プラトン以来の古い《主知主義のアポリア》を再提起し、以後、実践問題として美徳を問い直すことになる。
解説
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。