/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/
くわえて、たとえ詩書礼楽を範例として、そのとおりに再現できるようになったとしても、その現実的な応用実践には、一隅を挙げて三隅を返すような自発的な思考力と積極的な行動力が求められる。しかし、この思考力や行動力の修得については、孔子は特段の教育方法を持っておらず、せいぜい天賦の才覚の劣る者を叱咤激励する程度だった。そもそも、すでに秩序が崩壊して混迷してしまっている春秋戦国時代あって、安定した殷朝の政治や文化をもはやそのままに適用することはできず、実際、孔子の理想論は、現実味が無いとして、彼が遊説したほとんどすべての国々で拒絶されている。
一方、西洋では、古代ギリシアのピュタゴラス派や、その影響を強く受けたプラトンが音楽を重視した。彼らは、冥界からの再生というオルフェウス教の植物アナロジーを転倒し、現世こそが冥界であり、我々は天上界に戻るべきである、と考えた。ここにおいて、現世的なものは、欲望を喚起し、魂を現世に縛り付ける、とされ、それゆえ、純粋に魂のみで考えることを求めた。ここにおいて、それこそが数学であり、数学は世界の本来の調和を我々に垣間見せると考えられた。そして、数学は、量の算術、空間の幾何、力の天文、時間の音楽の四科に分けられた、という。
音楽が時間数学である、という主張については、弦楽器の弦の長さが音の調和を示した、という以上に、その時間性については不明だ。また、空間的な美術については、幾何学とは分けられ、プラトンにおいて、まさに現世的なまやかしそのものとして徹底的に批判された。そして、ローマにおいても「自由人の技能(artēs līberālēs)」として、「四つの道(quadrivium)」、すなわち、算術、幾何、天文、音楽が立てられたが、美術が含まれることはなかった。
しかし、孔子同様、ここには《主知主義のアポリア(行き止まり)》があった。プラトンは、美徳の実践には美徳を知ることが必要である、と考えたが、たとえこれが正しいとしても、美徳を知ることのみでは、美徳を実践する動機として不十分だった。この問題を、アリストテレスは、「アクラシア(不統制)」、すなわち、悪と知りながら止められない悪習の例を挙げて批判した。
日本の神道と和歌
日本の古代の土俗芸能は、神楽など、もとより宗教と深く結びついている。それは神饌(しんせん、食事)や幣帛(へいはく、産物)などとともに奉納として行われるべきものであり、真摯に務めることが、美徳、というより、失敗粗相は村全体の不幸災厄をもたらすと恐れられた。これらの奉納とともに、祝詞(のりと)として神に願いごとが奏上されるが、そこでは、まず長々とその神の由来神徳を讃えられ、ここに神ごとに韻律ある大和言葉の定型文が成立してくる。
解説
2024.03.29
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2024.08.26
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。