芸術は美徳を養うか① :日本の芸道とバウムガルテン、ペスタロッチ

2024.08.26

ライフ・ソーシャル

芸術は美徳を養うか① :日本の芸道とバウムガルテン、ペスタロッチ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/美徳は、時と場によって違い、また、状況とともに変化していき、そもそも当事者の立場によっても異なる。したがって、それは、創造力を求める。しかし、それは、いわゆる芸術作品を鑑賞したり、創作したりすれば、できるようになる、などということはない。教える者もともに遊び、労作に励んでこそ、そこに協和が生まれ、その協和こそが内面に刻み込まれていく。/

それゆえ、バウムガルテン(1714~62)では、『感性術(美学)』(1750)として、感性に実践の動機を求める。彼において、美徳(plcritudo)は、独立した客観対象(思われるもの、ノエマ)ではなく、主体的に「美しく思い続けること(plcure cogitando)」(思う行動、ノエシス)である。それは、イメージ(cognitio、思念)の協調的混和(concensus)作業であり、イメージ相互の混成、素材と混成イメージ、その混成イメージの表現、の三段階からなり、美しさとして、豊富・偉大・真実・明晰・直明・生命が質的に成り立つことが求められる。しかし、彼は、この作業ができるのは天才のみに限られる、とし、さらにこの美徳情熱が、演説のように、表現された作品を通じて観客の心を動かすことを考えたが、未完に終わった。

同1750年、ディジョン科学アカデミーは、懸賞論文として、まさに「学問芸術は道徳を向上させたか」と問うた。これに応募して入選したのが、自称音楽家のルソー(1712~78)である。その『学問芸術論』(1750)で、彼は、学問芸術は人々を知的な享楽奴隷に貶め、人間本来の自然良識(美徳感性)を失わせている、と主張し、自然良識に学問芸術の方を合わせるべきだ、と論じた。彼の自然良識、美徳感性は、ヒュームやバウムガルテンのように知的に構成されるものではなく、ロックの自然権を受けてシャフツベリ伯やハッチソンが想定したように、天賦のものである。しかし、たとえ天賦に美徳感性があって、人工的な学問芸術を退け、自然に善悪を判断するとしても、ヒュームが指摘したように、《主知主義のアポリア》ゆえに、善行の動機としては不十分だろう。

一方、ハッチソンに学んだアダム=スミス(1723~90)は、『道徳感性論』(1759)で他者への共感を人間本性の根幹に据えることで、美徳感性の形成だけでなく、美徳行動の実践を導き出そうとした。これは、シャフツベリ伯やハッチソンの言う内的美徳感性をあえて放棄することで、人は自己を客観化し、他者の外的感性との反射的な協和を基準とし目的として判断し行動する、というものであり、後の『国富論』(1776)における市場行動論を先取りするものとなっている。

善行の動機を説明するために、ルソーは『エミール』(1762)で、架空の孤児を教育する思考実験小説を発表する。ここにおいて彼は、自然良識の形成を、自然の教育(心身成長)、事物の教育(経験考察)、人間の教育(道徳理性)の三段階で論じた。つまり、ヒュームやバウムガルテンのように美徳感性を知的に構成するのではなく、児童の自発的形成とし、教員は、美徳を教えるのではなく、児童の自発的形成を支援するのみでよい、とされた。この第二段階で、絵画や作曲もまた課題とされるが、それは美術や音楽の技術修得のためではなく、時空間を把握する能力向上の手段にすぎない。また、第三段階で彼はエミールを社会に引き合わせるが、彼によれば、エミールはすでに充分に善良であって、農業などで自律生活ができ、アダム=スミスの言うような、生活や評価を他者に依存する世間の人々に憐れみを感じることが美徳だ、とされる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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