/ユダヤ人(セファルディム、ローマン、アシュケナジム)やシーア・イスラム諸派、クルド人、グノーシス・カタリ教徒、ドルーズ(ムワヒドゥン)教徒、現代でも紛争の種となるこれらの人々は、中世の東西文明の軋轢から生まれた。/
「十字軍って哲学に関係ある? 歴史の授業では、ローマ・カトリックが勃興し、十字軍が起こったことしか習わないけど」
それは西洋と東洋の正面衝突で、生活様式の違いもあきらかになります。
「なるほど、前者は画一的で排他的かもしれませんが、後者は多元的で融合的かもしれませんね。いずれにしても、どちらもややこしそうだ」
それを理解する鍵となるのは、西洋と東洋の接点、ビザンツ帝国です。6世紀以降の歴史を振り返ってみましょう。
13.01. 黒海周辺:6~9世紀
西ローマ帝国がゲルマン人とフン族の侵攻によって衰退した後、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス一世(482-th527-65)は、六世紀に西側をイタリアまでかろうじて奪還しました。しかし東側では、極東からフン族の末裔と称するハンガリー人が内陸部のパンノニアに定住し、北方からはスラヴ人が黒海西岸に流入しました。
「かつてのローマ帝国の栄光を取り戻すことはむりでしょ」
8世紀の中世温暖期には、中央アジアも砂漠化し、テュルク系ブルガール人は黒海西岸に移住し、スラヴ系住民とともに、ブルガリアを建国しました。一方、砂漠化に苦しむイスラムのウマイヤ朝(661-750)は、食料を求めてコーカサス山脈北のテュルク系ハザール人を侵略しました。
「それって、ノルマン・ヴァイキングがヨーロッパに侵攻したのと同時期ですよね?」
イスラムのウマイヤ朝はビザンツ帝国をも脅かしたため、ビザンツ帝国は、ウマイヤ朝に対抗すべく、ハザール人と協力しました。ウマイヤ朝は、ユダヤ人を同じ神の信者として受け入れ、さらに宮廷商人として保護しました。しかし、イスラム教の支配下では、過激なユダヤ原理主義であるカライ派が生まれ、ふつうのユダヤ人たちと対立しました。さらに、732年のトゥールの戦いでの敗北は、ウマイヤ朝内部にも混乱をもたらしました。そのため、カライ派はハザールに逃れました。
「ユダヤ人は外国人に支配されると、いつもその極端なルーツに戻ろうとする」
西はキリスト教ビザンツ帝国、北はノルマン人ルーシ(830-)、南はイスラム教国アッバース朝(750-1258)にはさまれ、テュルク系ハザール人は中立を求め、カライ派ユダヤ教に改宗しました。しかし、ユダヤ人の勢力がブルガリアにまで拡大することを恐れ、ビザンツ帝国は、ブルガリア人に東方教会への改宗を強制しようとしました。
「ローマ人は、かつてユダヤ教が古代ローマを乗っ取ろうとしたことを思い出したのでしょう」
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
