/平等だが協調なき顔無しの人々、大衆。彼らはそれぞれ無知と誤解に満ちた異なる歴史の異なる世界に生きています。人権の全能感と無名の劣等感のコンプレックスが、つねに彼らを不平と不満で苦しめ、他人との比較と競争に駆り立てますが、実際は確率に支配されています。そのため、彼らは無責任で、他人に便乗したがり、一時的な連帯感を得るためにいつも共通の敵を探しています。/
今日は近代の哲学について考えます。
「それって、もうやったのでは? 人間は論理的合理性を通じて自己に気づき、実際の経験から知識を獲得した、って」
そんなふうにソファ哲学者たちが言っているだけです。
「それとは別に近代の哲学がある?」
ええ。哲学は本の中だけでなく生活にもあります。気づかないかもしれませんが、それが私たちの考え方を作っています。だから、今日は歴史を振り返り、それがどのようにしてできてきたのか、見てみましょう。
22.1. 自由の限界
たしかに、近代ヨーロッパの人間の理想は崇高です。彼らはかつて教条的なキリスト教の下で暮らしていましたが、神の代わりにあらたに普遍的な人権を主張しました。しかし、実際には彼らは帝国主義で全世界を支配し、分裂、抑圧、憎悪、戦争に陥れました。
「ヨーロッパ人はいまだに自分たちが最も発展していて、他の国々も見習うべきだと信じているのかも、でも、実際は自分たちが作り出した問題で衰退していっていますよ」
この問題を解決するには、彼らの哲学がどこから来たのか、そして、なぜ彼らの理想と行動が乖離しているのか、を理解すべきでしょう。問題はもともと人間のリバティとフリーダムの概念に含まれていたのかも。
「全知全能でもない人間が、リバティだのフリーダムだのを享受したら、当然、多くの問題を引き起こすでしょうね。でも、リバティとフリーダムって何が違うの?」
語源的には、リバティは人間を意味し、フリーダムは友情や親愛と同じ言葉から生まれました。つまり、リバティは同じ人間として社会的に認められ扱われることであり、フリーダムは束縛のない友好的な気分です。ここで、多くの古代民族には、外国人、異教徒、奴隷が人間ではなく野獣と同じだったことを思い出すべきでしょう。
「彼らは敵で、それを殺すのをだれもためらわなかった。最初からリバティは自分たちのコミュニティに限定されていた」
コミュニティの子供たちはリバティ、つまりメンバーとしての承認を受け継ぎました。しかし、古代ローマが拡大し、異民族を吸収しなければならなくなったとき、彼らにもリバティ、つまりローマ市民権を与えようとしました。ローマに税金と兵役を納めれば、ローマは彼らに軍事的な保護とパンとサーカスの福祉を与えました。
「有料会員サービスみたいだ」
でも、その維持費は市民の貢献を上回って、ローマは財政難に苦しみました。だから、ゲルマン人が殺到すると、市民権制度は崩壊し、生粋のローマ人たちは東のビザンティンに逃げてしまいました。
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
