/平等だが協調なき顔無しの人々、大衆。彼らはそれぞれ無知と誤解に満ちた異なる歴史の異なる世界に生きています。人権の全能感と無名の劣等感のコンプレックスが、つねに彼らを不平と不満で苦しめ、他人との比較と競争に駆り立てますが、実際は確率に支配されています。そのため、彼らは無責任で、他人に便乗したがり、一時的な連帯感を得るためにいつも共通の敵を探しています。/
「それは隣町どうしが撃ち合う内戦じゃないか」
ワシントン(1732-99)は大陸軍最高司令官に選出されましたが、そんな植民地軍はまだありませんでした。一方、イギリスは新領主将軍を派遣しましたが、彼らは新大陸のジャコバイト領主たちと対立しました。さらにイギリスは、兵士不足を補うためにドイツのヘッセン伯から英語もできない貧農傭兵を多く雇い入れなければなりませんでした。スペインやフランスの植民地人、さらには先住民インディアンも、イギリス植民地人を憎み、イギリス政府側についた。逆に、彼らの母国のスペインとフランスは、イギリス植民地人を支援し、イギリス政府を新大陸から追い出そうとした。しかし、ヨーロッパ各国からフリーメーソンの新領主や知識人がイギリス植民地人の義勇兵として駆けつけました。
「ややこしすぎる。どのみち、両陣営とも指揮権のないごたまぜで、まともな作戦はできなかっただろう」
22.8. フランス革命
フランス革命はもっとひどかった。政府財政は、身のほど知らずの浪費と多くの国際戦争で、危機的でした。だれもが経費削減と増税の必要性をわかってはいましたが、だれもそれを受け入れませんでした。そのかわり、農民と地方ジェントリ、都市の平民とブルジョワ、新領主と教会、さらには王族の中でさえ、たがいのムダを非難しあいました。
「だれも自分の生活は変えずに、人に便乗したい」
米国独立戦争への過剰な支援は致命的でした。政府の課税案に対して、人々は、三部会にしか税の決定権はない、と主張しました。三部会は1789年にベルサイユで召集されましたが、議論をどの進めるかさえ合意できませんでした。政府はパリの暴徒に軍を派遣しようとしました、給料遅配の兵士たちは命令に従いませんでした。こうして廃兵院の武器が奪われ、新領主たちは殺されるか逃げるかして、国王も人質に取られました。
「社会秩序の崩壊だな」
混乱は続きました。政府を倒し、自由、平等、私有財産を主張する人権宣言を出したたものの、次にどうするかは、計画がありませんでした。英国のような立憲君主制を主張する者もいれば、革命家オルレアン公を新国王に据えること、アメリカのような大統領制、ブルジョワの共和国、平民による共産主義、さらには政府のない無政府主義を主張する者もいました。さらに外国も介入して、絶対王政を維持しようとしました。
「大衆は多数だが団結していない」
そのとおり。彼らはみずから決定する人権を得ましたが、その結果、平等ながら他者と協力できなくなり、自分で混乱を招いて、自由も友愛を失いました。ヘーゲルの考えとは逆に、彼らには共通の理念はなく、ただ共通の敵がいるだけでした。そのため、敵を倒した後の解決策は、1793年から1794年にかけてのロベスピエール(1758-94)の恐怖政治だけでした。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
