/当時のヨーロッパもイスラムもばらばらで複雑でした。しかし、それは目を背ける言いわけであってはなりません。わかりにくいものに立ち向かう勇気、それが哲学です。激動の時代には人々は新しいアイデアを求めるでしょう。また、それらには一連の流れがあります。/
「それで、今日は十字軍についての話ですが、それは哲学となにか関係がありますか?」
なにごとも突然に起こるわけではありません。人は理由があって行動を起こします。
「でも、歴史の授業でも、ローマ・カトリックが台頭し、十字軍が起こったとしか習いませんよ」
たしかに、それはわかりやすい説明ですが、わかりやすいのは怪しいことも多いです。前回の講義で述べたように、当時のヨーロッパもイスラムもばらばらで複雑でした。しかし、それは目を背ける言いわけであってはなりません。わかりにくいものに立ち向かう勇気、それが哲学です。
「それが哲学だとしても、哲学として見るべきものはありますか?」
激動の時代には人々は新しいアイデアを求めるでしょう。また、それらには一連の流れがあります。その端緒を掴むために、前回飛ばした東ヨーロッパから話を始めましょう。
東ヨーロッパ
アッティラ王の後、フン族は内紛により五世紀半ばに消滅しました。代わって東ゴート族がパンノニア盆地からローマまで支配しました。しかし、六世紀、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス一世は一時的に旧ローマ帝国を復活させ、東ゴート族を滅ぼしました。その後、東の詳細不明なハンガリー人がパンノニアに定住し、北のスラブ人が黒海の西にやって来ました。
「空き地があるとすぐだれかが来ますね」
七世紀後半からの中世温暖期で中央アジアが砂漠化すると、テュルク系ブルガリア人が西に移動し、スラブ系住民とともにブルガリアを形成しました。一方、イスラム教のウマイヤ朝も砂漠化に苦しんで、食料を求めてコーカサスを越えて北部のトルコ系ハザールに侵攻しました。
「ノルマン・ヴァイキングがヨーロッパに侵攻したのと同じ頃ですよね?」
イスラムの侵略に対して、ビザンツ帝国とハザール人は協力しました。ユダヤ人はイスラム教にその前身として認められていましたが、それを打倒するために、ハザールに移住し、ハザール人もユダヤ教に改宗しました。ブルガリア人もユダヤ教に改宗することを恐れたビザンツ帝国は、ブルガリア人に東方教会への改宗を強制しました。894年、ブルガリア王シメオン一世はビザンツ帝国に侵攻し、自らをビザンツ皇帝と称し、東方教会とユダヤ教に対抗して、むしろグノーシス主義キリスト教を、ボゴミル主義として受け入れました。
「グノーシス主義キリスト教は、ユダヤ教の創造主である神を、私たちをこの世に閉じ込めた悪魔とみなし、真の神を直接に認識しようとする異端のカルトでした」
歴史
2023.09.30
2023.10.12
2023.11.05
2023.11.12
2024.02.23
2024.02.26
2024.07.16
2024.10.21
2024.11.19
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。