十字軍:世界の激動と文化の競争

画像: イベリアのザフラー宮殿

2024.07.16

ライフ・ソーシャル

十字軍:世界の激動と文化の競争

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時のヨーロッパもイスラムもばらばらで複雑でした。しかし、それは目を背ける言いわけであってはなりません。わかりにくいものに立ち向かう勇気、それが哲学です。激動の時代には人々は新しいアイデアを求めるでしょう。また、それらには一連の流れがあります。/

「崩壊したサーマーン朝から奇妙な男が流れ着いた。ギリシャ哲学の過度の輸入がイスラム教を追い越したのだろう」

カリフ・アル・ハーキムは1021年に暗殺され、ファーティマ朝も衰退しました。こうして解放されたエルサレムはさまざまな宗教の多くの巡礼者を迎え入れ、国際貿易都市として繁栄しました。1023年、アマルフィ商人は洗礼者聖ヨハネ修道院の跡地に巡礼者宿泊施設を建て、聖ヨハネ修道会、別名、救院修道会に委託しました。

西でもイベリアの後ウマイヤ朝が1031年に地方豪族によって崩壊し、北のキリスト教西ゴート族残党と東のフランク族が「レコンキスタ」として、ともにイスラム教イベリアに侵攻しました。

「イスラム教が三百年統治していたイベリアをゲルマン人が奪還した」


以前サーマーン朝に仕えていたテュルク系セルジューク族は、アフガニスタンのマムルーク朝ガズナ朝の支配を嫌い、1035年に北ペルシアのニシャープールに独自の独立国家を樹立しました。軟禁されていたアッバース朝カリフと共謀し、セルジューク朝首長はスルタン(統治者)の称号を受けました。セルジューク朝は、さまざまな主要都市にニザミエ学校を設立し、現地慣習や個人啓示より原典精査と合理考察を重視する穏健な法学と神学を教えました。

「テュルク人ながら、彼らがサーサーン朝やサーマーン朝のペルシア文化の正統継承者でしたね」


叙任権闘争

多くクリュニー修道院は莫大な富を生み出し、教皇と司教の地位が権力闘争の焦点となりました。とくに1032年に教皇になったベネディクト九世は、同性愛と聖職売買による教会の腐敗の権化でした。彼は教皇位さえ売ったため、三人の教皇が並立してしまいました。神聖ローマ皇帝ハインリヒ三世は、1048年、三人とも追放しましたが、新教皇はわずか23日で暗殺されました。

「そもそもローマ・カトリック教会が清かったことがありますか?」

イベリア半島のレコンキスタでは、イスラム教の下で保護されていた裕福なセファルディム系ユダヤ人も略奪され、追放されました。彼らはピレネー山脈を越えて南フランスに入り、そこの庶民に衝撃を与えました。腐敗した無能なローマ・カトリック教会に失望した人々は、ライン河から反ユダヤ・反教会のカタリ派を呼び寄せました。彼らは自分たちの魂が汚れた地上に閉じ込められていると信じ、輪廻から逃れるために禁欲を行っていました。彼らに司祭はいませんでしたが、人々を浄化する能力を持つペルフェクティス(完徳者)は、極度の禁欲で、本物の僧侶や尼僧のように暮らしていました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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