十字軍:世界の激動と文化の競争

画像: イベリアのザフラー宮殿

2024.07.16

ライフ・ソーシャル

十字軍:世界の激動と文化の競争

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時のヨーロッパもイスラムもばらばらで複雑でした。しかし、それは目を背ける言いわけであってはなりません。わかりにくいものに立ち向かう勇気、それが哲学です。激動の時代には人々は新しいアイデアを求めるでしょう。また、それらには一連の流れがあります。/

「結局のところ、彼らも強盗団でしたね」

彼らは聖地、巡礼者、そしてなよりもレバントビジネスの巨大利益を守らなければなりませんでした。そのため地元の聖ヨハネ修道会も救院騎士団として武装し始めました。ヨーロッパ側でも、シトー会のベルナルドの支援を受け、武闘修道会の聖堂騎士団が設立されました。それは納税と用役の免除特権を与えられ、さまざまな領主から巨大の寄付を受け、教皇はこの直接軍事力を行使して、1122年、皇帝は聖職任命権がないことを ヴォルムス協約として承認させました。

「自前の教会軍は、傭兵やノルマン人よりも効果的だろう」

しかし、地元のテュルク系ザンギー朝が 1144年、シリアのエデッサ国を滅ぼしました。シトー会のベルナルドは、第二次十字軍を募集し、フランス王や神聖ローマ皇帝などの大物も加わりました。聖堂騎士団の護衛を受けて、彼らはエルサレムに着いたものの、戦意はなく、そこで解散しました。

「それは、たんなる王様たちの観光旅行でしたね」

女子学生を妊娠させて修道士にさせられたアベラールは、ロスケリヌスの唯名論を、普遍は実在しないが人間の概念として保持されている、とする概念論に発展させました。しかし、この考えはローマ・カトリック(普遍)教会の実在を脅かすものだったため、シトー会のベルナルドは徹底的に反論し、1141年には彼を破門させました。

「彼の思想はともかく、女子学生とのラブロマンスを聞いたことがありますよ」

1121年、モロッコのベルベル人がムワッヒド朝を建て、イベリア半島をキリスト教徒から奪還しました。コルドバのイブン・ルシュド、別名アヴェロエスは医師として宮廷に招かれ、アリストテレス注釈者として新大学の計画に携わりました。彼はアル・ファーラービーを批判していたアル・ガザリーを再批判しました。

900年頃、中央アジアのアル・ファーラービーがアッバース朝イスラムにアリストテレスを紹介し、アリストテレスに次ぐ「第二の師」と呼ばれました。1000年頃のブワイフ朝のペルシア人イブン・シーナ、別名アヴィチェンナは、アル・ファーラービーからアリストテレスを学び、論理的推論の必要性を主張しました。しかし、1100年頃のセルジューク朝バグダッドのニザミエ教授であった同じペルシア人のアル・ガザリーは、理性の限界を感じ、スーフィズムに興味を持ちました。これに対し、イブン・ルシュドは、これまでアリストテレスに紛れていた新プラトン主義の流出論を排除し、アリストテレス本来の合理主義を明らかにしました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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