十字軍:世界の激動と文化の競争

画像: イベリアのザフラー宮殿

2024.07.16

ライフ・ソーシャル

十字軍:世界の激動と文化の競争

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時のヨーロッパもイスラムもばらばらで複雑でした。しかし、それは目を背ける言いわけであってはなりません。わかりにくいものに立ち向かう勇気、それが哲学です。激動の時代には人々は新しいアイデアを求めるでしょう。また、それらには一連の流れがあります。/

三神教の疑いをかけられたロスケリヌスは1092年にイギリスに亡命し、アンセルムスと普遍問題について議論しましたが、敗退して追放されました。そこで、ロスケリヌスはローマに行き、名前の存在と独立性を説き、誤解を解きました。ノルマン人イングランド王からカンタベリー大司教の任命に多額の献金を要求されたアンセルムスも、ローマへ逃亡しなければなりませんでした。

「イスラム教と違って、ヨーロッパには自由な研究の余地はありませんでした」


十字軍

西ヨーロッパではたえず紛争が続いていました。農業の改善により人口は増加しましたが、ノルマン人を加え、土地が足りません。当時、セルジューク朝が小アジアを占領し、1095年、ビザンチン皇帝は教皇ウルバヌス二世に傭兵を要請しました。ウルバヌス二世は話をねじ曲げ、クレルモン公会議で、エルサレムをイスラム教徒から奪還するよう求めました。

「つまり、それは事実上の棄民政策だ」

アミアンの隠者ピエールは民衆を扇動し、まず遠征資金を得るために、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世を経済的に支援していたライン河のユダヤ人を攻撃させ、略奪をさせました。その後、四万人が東へ向かい、ハザールの子孫であるハンガリーのユダヤ人の村を襲撃しました。彼らはビザンチウムに着いたものの、戦力にならない強盗の大群に困ったビザンツ皇帝は、彼らをすぐ小アジアに追い出し、彼らはそこで四散して消滅しました。

「ローマ・カトリック教会と敵対するカタリ派とライン河ユダヤ人の両方を一気に消す策略だったのかも」

もちろん正規軍も用意されていました。元軍人である司教が中心となり、イベリア半島でイスラム教徒と戦ったトゥールーズ伯、ノルマン人として南イタリアを占領したターラント公がゲルマン騎士団とノルマン騎士団を率いました。聖職と一般の巡礼者を加えた十字軍の人数は10万人に膨れ上がりました。教会刷新運動も勢いを増し、1098年にはブルゴーニュの白衣のシトー派修道会が、腐敗した黒衣のクリュニー修道会から独立しました。

「戦争が幸せなのは、始まる前だけでしょ」

ところが、驚くべきことに、 セルジューク朝が内紛に苦しんで空白だったため、十字軍は、シリアの途中で、容易に独自の新国家を建国することさえできました。1099年に十字軍がエルサレムに到達すると、イスラム教徒だけでなくユダヤ人や東方キリスト教徒も虐殺し、彼らのエルサレム王国は、ジェノバやヴェネツィアとの貿易を独占して、巨万の富を獲得しました。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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