/当時のヨーロッパもイスラムもばらばらで複雑でした。しかし、それは目を背ける言いわけであってはなりません。わかりにくいものに立ち向かう勇気、それが哲学です。激動の時代には人々は新しいアイデアを求めるでしょう。また、それらには一連の流れがあります。/
しかし、イベリアのキリスト教徒と戦うために、ムワッヒド朝は他のイスラム諸国と協力する必要があったため、あまりに近代的だったイブン・ルシュドを追放し、1195年に彼の著書を焼き捨てました。
「宗教国家の限界がたんだん明らかになってきたね」
1163年、エルサレム王国は、弱体化したエジプトのファーティマ朝に侵攻しました。支援の呼びかけに応じて、シリアのザンギー朝はクルド人将軍サラディンを派遣しました。彼はザンギー朝とファーティマ朝の両軍を統一したが、ザンギー朝はこれを彼の反乱としたため、サラディンが逆に1183年、ザンギー朝を征服し、独自のアイユーブ朝を建てました。1187年、彼はエルサレム王国を攻撃し、聖堂騎士団と病院騎士団を破り、その地域を奪還しました。エルサレム軍はかろうじてアッコ港を確保し、第三次十字軍がすぐに到着したため、1192年、にエルサレム軍のアッコ保持と、巡礼者のエルサレム訪問を認めることで、和平が結ばれました。
「でも、ローマ時代以来、エジプト小麦の輸入はイタリアの生命線でしょ」
そこで教皇は三万の軍勢でエジプトへの直接遠征を計画しました。しかし、1201年にヴェネツィアに集まったのは、わずか一万、それも船賃を払う金もありません。ヴェネツィアは、代金の代わりに、彼らに対岸のライバル港ザラを破壊させました。当時、兄に王位を奪われたビザンツ帝国王子から助けを求められたので、彼らは、コンスタンティノープルを攻撃し、略奪と虐殺の限りを尽くして、自分たちのラテン帝国を建て、エジプトにもエルサレムにも行きませんでした。
「熱意は冷めやすく、暴徒は傭兵よりも悪い」
純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元テレビ朝日報道局ブレーン
歴史
2023.09.30
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2024.10.21
2024.11.19
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。